書評日記 第349冊
量子力学の冒険 トラカレ
ヒッポファミリークラブ

 「7か国語を同時に習おう」というヒッポの目標の裏には「言葉を自然科学する」という学術的な野望が潜んでいる。

 「量子力学」という学問は魅力的な分野だと思う。いかにも最先端の科学のような気がする。アインシュタインやハイゼンベルグといった魅力的な科学者が魅了された学問であるからおもしろくないはずはない!と思えてくる。
 私の理系への憧れはそういうところが端を発している。実際に原子力学科に入学したのも「量子力学を習うことができる」、「原子力・核融合に触れることができる」、「最先端の科学技術イコール未来を垣間見ることができる」という単純かつ素朴な科学への憧れであった。もっとも、実際の大学での原子力学科という場所は、おもしろいことばかりではなくて、現実的な面もたくさんあるものだったが、それでも私は「量子力学」という学問を一通り習うことができたことを誇りに思う。

 数学・物理学は自然を理解する時の言葉だ。亀の子の化学式も魅力はあるのだが、数学・物理学に出てくる数式のシンプルさは、何よりも「基本的なところを掴んでしまえば後は計算でなんとかなる」という暗記する部分が少ないのが嬉しい。原理とは真理とは根元とはひとつの部分・簡単なもので構成されているに違いない、という信念が数学・物理学にはある。実際の現象からどういう法則があるのか導き出すということは、共通点を見取ることである。どんどん余分なものを切り取っていって、本質である物事に共通な部分をがっちりと掴む。そうすると、何であっても「共通である部分」をもとにして応用が効くわけだ。
 だから、数学・物理学は、知らないよりは知っておいた方がおもしろい。何であっても知らないよりは、知っている方が楽しい。いろいろ自分の中で比較して発見をする喜びがある。それが楽しい。
 そういう道程が「自然科学」なのである。

 ヒッポでの言葉の覚え方は色々なテープを日常で聞きながら真似をして覚える。文法だとか単語の意味だとかそういう細かいところは全く関係なく、まずはおおまかに全体をとらえる。テープのまま真似をする。
 私は英語ができない方だけれども、ヒッポのやり方はとても納得がいく。漫画を描くにも「模写」というものが重要になる。絵画が上手くなるには、まずは上手い人の「模写」をすると良い。そうすると筆使いとか色使いだとか、自然と学んでいける。
 「赤ちゃんのように真似をしながら学ぶ」というモチーフがある。子供の学習の仕方は方法論から入るわけではない。全体像を掴んでから、それから個々の単語に分化するのである。
 「直感」というものは全体から法則をすばやく見つけることである。アインシュタインは特許の受け付けで、ごちゃごちゃした書類から本質の部分を掴むことを学んだ。まずは、思想があるということ。求めるべき像が結ばれるということ。
 全体から部分へ、部分から全体へ、動的に繰り返されるのは「オートポイエシス」と云い、フィードバック現象による数式&図であらわされる。
 すべては関連を持っている。共通点がある。だから違いが見える。分類ができる。

 私は、まずはたくさんの本を読むことによって文章を書くことを学ぼうとしている。実際、300冊以上を精読して、ひとつひとつの感想を書くことによって、文章に対する直感力が、共通点を求める力を習得しているような気がする。
 世の中で何ひとつ無駄なものなんて存在しない。だから、どんなものにも本質があると思う。本質を蔑ろにしてしまって、自分勝手なやり方をするのは、あまり賢い方法ではないと私は思う。
 だから、成功者に学ぼうと私はする。何かを為し得てきた人達は、ひとつの鍵を握っている。研究熱心であり継続する力がありどこまでも止まない興味を持つということ。それは、決して投げ出さない関係を持つことだろうし、ひとつひとつの事象に対して目を向けることのできる素直さが必要なのだと思う。

 「量子力学の冒険」を読み、「枕草子」を観て、認知科学の「何故ひとは書くのか」という本を買う。
 「いろいろな」という大切さは、自分の言葉を広げ理解の幅を広げることに等しい。

update: 1997/09/02
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