書評日記 第350冊
ジャーナリズムというものを発明した成上者の筆頭、エミール・ド・ジラルダンの伝記。
私の嫌いな職業は、銀行と不動産と株屋と営業そしてジャーナリズムである。どれも基盤を持たないところから発端がある。金とか土地とか資本主義社会でしか成り立たないもの、いや、資本主義の悦楽を成り立たせているものがそれである。
尤も「嫌い」とは云え、興味はあるわけだし、彼等に対抗するためには『まずは敵を知る』ということで資本主義社会の構造を知っておくのも悪くはない。また、それほど「嫌い」を強調して知らずにすますほど私は狭量ではない。「毛嫌い」というのが本音だろうか。あんまり信用したくない人達の集団というところ。
先の職業はまずは敵対から始まる。如何にして相手を出し抜くのか、ということに執心する。英雄願望があるわけだから、孤独な孤高さはない。一般大衆の中における群像として君臨しなくては意味がない。
『一般大衆の理想を具現するのではなくて、彼等のちょっと先の欲望の部分をくすぐり共有する』ところにジャーナリズムの面白さと真髄、そして、「枷」がある。
決して自己を主張することはできない。一般大衆の動きに自己を合わせるに過ぎない。それを知っていたジラルダンは手法として大衆の願望に添う。
ただし、宮武外骨風のところがジラルダンにもある。先見の目、いや、「大衆」というものが如何に操作されたがっているのか、ということを知っていたのではないだろうか。
だから、正統さのあるむちゃちゃをする。何を支えにしているのかといえば、言わば「芸」である。何かを見せる部分に固執している強かさというものを感じる。
私生児ジラルダンは、自分の中の「暗い」部分を自覚していた。もちろん、その「暗い」部分を真実のものとして小説家として自分を成り立たせる方法もあった。フランスという国が赤と黒の選択肢の無かった時代に、自ら「ジャーナリズム」というものを発明して、新聞の中に言葉と広告と資本をごちゃごちゃにして、マスコミュニケーションの真髄であるところの大衆の中で安住するという快楽、つまり孤独ではないこと、皆と同じことをやっているという安心感、自分が「自分」といして独立しない無発展性、そういうところに「大衆」というものをジラルダンは新聞を使って創り出した。
いわば、貴族と労働者という歴史的関係から、群像と大衆という多数決の世界を作り出した。もちろん、ジラルダンは貴族の称号「ド」を強く欲し、政治・経済とは区別化したところの民衆のショーグンとなることを望んだわけである。
果たして、ジラルダンの一生は幸福であったのか不幸であったのか。だが、同じ男という種族として考えるならば、雄として人生をまんべんなく「遊ぶ」ことができたのではないかと思う。暗い孤独の中に唯一無二である自分の心を見出して不遇な未来を捨て去って、あきらかに真実とは程遠いかもしれないが、それでも決定的に何かには近づいていくことができる「刹那」を味わう人生ではなかっただろうか。
ジラルダンは何も残してはいない。子供もいなかったし、彼の一生であった「新聞」はニュースだからこそ古くなれば捨て去られるものでしかなかった。
無常という東洋の安易な言葉を使いたくはない。少なくとも、ジラルダンの方法は、ジャーナリズムの先駆であったし、彼自身、本当の意味でのジャーナリストであったに過ぎないからだ。
主義主張とは全く正反対の価値……価値が無いという《価値観》がフランスという国を翻弄したのだと思う。つくづく奇妙な国だと思う。
update: 1997/09/05
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