書評日記 第361冊
君が世界を回している…!! 安孫子三和
白泉社レディスコミックス
かつて少女漫画家達は夢見るがゆえに結婚・恋人という現実に出会うことはない、と見られていた。それは、かつての(?)文筆家達が日常生活に奇異な行動をとることによって「作家」という地位を誇示していたのと似ている。人間的な魅力と作品の魅力は違うという意見は今日でも見掛ける。それは永井荷風の培った文筆家には非日常を日常とする奇妙さが必須である、という懸想かもしれない。
むろん、作家であろうと少女漫画家であろうと、作品のために想像力を掻き立てる作業は同じに違いない。また、それがあまり日常的ではない思考から出ていることは間違いない。ただ、作家や少女漫画家自身はそれでいいのだろうか、と思い悩み始めたということだろうか。そして、結婚も恋人も含む形で少女漫画家は、自分の中の「少女」を超えることができつつあるような気がする。
レディースコミックという分野が出来たのは、かつて少女漫画を読んでいた少女達が大人になったためなのか、それとも、かつて少女漫画を描いていた少女が大人になったためなのか、よくわからない。ただ、槇村さとるや松苗あけみが少女漫画から脱却しきっているのと同様に女性の中での「夢」はあるべき形で適えようという正統さを感じる。
というのも、一時期、少女漫画家たちは「母親」になることで「大人」になった。子供を産み育てることで、自分の子供に「少女」を渡すことができるようになった。逆に云えば、「母親」にならなくては、少女漫画家達は「大人」になれなかったといって良い。これが数々の出産漫画・出産エッセーが氾濫した理由だと思う。
ただし、女性の幸せが結婚・出産の組み合わせでないところにもあることに気付き始めると、「君が世界を−」のような作品が出来上がる。確かに子供を産むことによって少女漫画家達は大人になることができるのかもしれない。結婚・出産という過程が家庭に引きこもるという外社会からの遊離を示し、また、社会の目が未だそのようにある現代においては、別な意味で彼女達は「女」というものをラベル付けられる。
もちろん、女には女の役目があり、男には男の立場がある、という切り分けをしてしまうのならば、それで良いかもしれない。ただ、一度「自己」を見つけ始めた時、「母親」にはない自分の姿を見付け出した時、果たしてどのような自己実現を為すのかと模索し始めた時、もう一度、自分なりの姿というものを確認する必要があるのではないか、というところだろうか。これは、女性に限らず、男性にも云える。
現代社会は男女平等だとか職業の自由とか云われるけれども、実のところ、色々な選択肢があるように見えて、選択の幅は狭いような気がする時がある。自由なようでいて自由でないような気がする時が多い。
それは、一体何をしていいのやら解からないという戸惑いが常に自分に付きまとうのである。
だが、そもそも「人生」だとか「生きがい」だとかは、ピューリタンな考え方だと思ってみれば、なんなんと心安らかに過ごすことを求める安穏な自分というものを確認できるような気がする。これは世間に埋もれることを意味するのではなく、世間に沿った形で自分の「夢」を適えていこうという実現性のある夢の描き方、理想の持ち方、というところだろうか。
肩肘はらずにゆったりとした気持ちで考えるのも悪くはなく、そういう「日常」の中にこそ自分というものがある、という感じだと思う。
安孫子三和は「みかん絵日記」で猫に自分の想いを託す。そして、今、結婚・出産という過程を経て、娘を得、再び自分に帰ろうと歩み出す。
そういう急がない日常の連続にこそ、ホンモノが潜むような気がする。
ちょっとした冒険とやる気と、内に秘められ続けた希望というものが何かを適える最大の原動力になるような気がする。
そういう漫画である。
update: 1997/11/26
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