書評日記 第362冊
水島新司はすべて野球を中心にして人生を語る。いや、彼の人生が「野球」そのものではないか、と思える節がある。戦後の日本に於いて野球は特別な意味を持ったスポーツであった。
高橋源一郎の野球をモチーフにした小説に対して富岡多恵子は「純文学の内輪ウケである」と毒舌を吐き、高橋源一郎は「わざわざ誤読をしなくても」と反論をする。私の中で双方共に信じられる作家であるから、双方の言い分は尤もだと思う。違うのは男性であるがゆえにかつて(そして今も)野球が特別な意味をもっているという共感を得るところで私は高橋源一郎の気持ちが良く解かる。日本男児の共通の話題という大きな内輪話というところだろうか。
「野球狂の詩」も女性投手。そして「朝子の野球日記」も女性投手である。日本の夏が甲子園一色に染まる時、日本の半分の人口は何を思っていたのだろうか。私は無邪気に高校野球が好きだったし、かつて住んでいたあちこちのチームをNHKで見る毎に応援していた。
清原や桑田の時代、江川の時代、もっと溯れば王、柳田、衣笠の時代。相撲の高見山や千代の富士や北の海が居た時代、を想うのと同様な懐かしさと興奮が私の高校時代であった。そういう共通の懐かしさ、共通の意気込みみたいなものが、日本の「野球」には存在するような気がする。
果たして女性がそれを共感し得ていたのかどうか私には解からない。むろん、野球や相撲を好まない男性もいると思う。今となれば、サッカーやラグビーなどの様々なスポーツがある。私はサッカーや競馬に疎い。最近TVも見ないから、そういう最新情報からはずれている。それが一種除け者的な感じを受けるのは、致し方がないことであり、趣味が違うとはそういうものなのかもしれない。ひょっとすると富岡多恵子の感情はそういうところにあるのかもしれない。
ただ、何かを語る時、物語が必要になる時、野球に例えるというのは、共通知識として頼もしいものがある。その辺が内輪ゆえの楽しさであったとしてもだ。
女性が男性中心のスポーツに参加する。そもそもが体力が違うのだから、絶対的な不利を理由に男女別々にスポーツを行なう。また、昨今の女性の社会進出の傾向……いや、女性が社会に出られる場を模索する一環として(これは「女性を再発見」しつつあると云える)競馬のジョッキーとして女性旗手を据えてみる麻生いずみの「ブラック・バード」という漫画もある。
水島新司の描く女性は男性から見た女性に過ぎない、という匂いを感じるところがある。それは、彼が男性であるし、私も男性であるからだと思う。どうやっても、本当のところの女性はわからないし、実際には「女性」なんていうひと括りにしてしまうのが間違いであって、そこには「個人」があるだけに過ぎない。だから、主人公・朝子は朝子なりの主観で自分と野球という距離を測っていく。
現実は厳しいものだとして嘆くだけでは結局のところ現実は一向に変わらない。となれば、現実は厳しいものだけれども、その厳しさを「いなす」ような技術が必要ではないだろうか。小兵であった千代の富士が圧倒的な強さを誇ったのは彼が人を見る目を持っていたからではないかと思う。
むろん、こういう例えは「内輪」に過ぎない。だが、私にとって相撲とか野球とかフィギュアスケート、体操、新体操は、内輪かもしれないけども、私を培っている本質に近いものだと思う。
そういう部分で水島新司は「野球」を共通言語にして人を語る。そして私にはそれが心地よい。
update: 1997/11/26
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