書評日記 第365冊
文學界12月号には、新人賞作品が2編載っている。これを楽しく読み終え、「語り手の事情」300枚を読む。
小説の魅力の半分はタイトルで決定されると云っても過言ではない。無論、その魅力に見合うだけの内容が作品本体の中に含まれることが必要不可欠となるのだが、わずか10文字に満たないタイトルから覗き見る作品への妄想は、それを逞しくするだけの理由を根拠を有するがゆえの道標だと云える。
先月号にて、砂川ガロンの「天婦羅車掌」というタイトルが目を惹いた。そして、果たせるかな、彼女(!)の作品が奨励賞をとることになる。タイトルというものは、そういう作品を抱える力を持っているような気がする。
「語り手の事情」というタイトルから得られる筋書きは、語り手とメタファを抱え込んだまま、しかし、その語り手をして主人公となり、そこには様々な事情がややこしい事情として存在する、というものだろうか。
実際、全編に渡って「語り手の事情」という科白が繰り返される。それがどのような束縛であって彼女を「語り手」として拘束し、その事情の支配下に置かれるのか良く解かってはいない。だが、よく解からないながらも、その事情が単純なものではないことが分かる。私は小説という舞台はこの程度の設定で充分だと思う。いや、本当のところは「19世紀末のイギリス」という形で時代性を帯び、登場人物の思想範囲もこの中に限られて語られている。だから、飛び切り緩い設定をして自由奔放に語ることの出来る場を作者・酒見賢一は用意して、その中で一番ロマンチックな19世紀末を選択する。これは、作者の作戦勝ちを意味するような気が私にはする。
場の中から語られるのはグリーナウェイの映画「枕草子」を想わせる。むかし聴いたラジオドラマの「ボス」(…というタイトルであったかさだかではない)に似ている。
言わば、高橋鐡の心理学書(?)「あぶ・らぶ」というところかもしれない。多少、コミカルに寄ってしまうのが柴田昌弘著「クラダルマ」というような気もする。
それは、山田詠美や松浦理恵子の語るような女性からの視点ではなくて、男性性としての「探求心」赴くまま、そして、性への渇望という素直な人生観から語られる知識の泉というもの、だろう。高らかに女性書の名を掲げてしまう村上龍の本ではなくて、渡辺淳一のように不倫をして正統な性愛だと云わなければならない矛盾を抱えた小説に陥ることではなく、ひいては、小説を書く者にとって安易な解決を図るのではなくものである。明らかに作者・酒見賢一はそれらを踏まえた上で意識的に彼なりの性への達成感というものを語っている。または、「達成感」そのものを語る。
多分、私は人並み以上に「性知識」は多いと思う。これは実体験に乏しいからこそ溜め込まざるを得なかった「性」への妄想というものかもしれない。多分・酒見賢一はフロイト心理学、または、その周辺の心理学を知った上でこれを書いたと思う。サド文学にも十分触れているであろう。そこにある背景としての知識が彼に備わっているからこそ、また、それらが必要なものであると認識したからこそ、彼の小説は私にとって非常に心地よいものとして感じられる理を持っているのだと思う。
実は、難点も無きにしもあらず、という程度には在る。これは、作家として小説を書く時点での苦悩・戸惑いを示しているような気がする。このような舞台を昔という時代に据えた時、小説の中に起こる出来事が時間的に全て既知のものであるという矛盾から、小説の語り口は自然と過去を眺める客観視をせざるを得ないところがある。むろん、これらの難点に対して「語り手」というメタフィジックな登場人物を据えたとしても、逃れることは出来ないだろう。これは「矛盾」であるからこそ、小説が多少破綻してしまうのは致し方が無いと苦笑してしまうことで私は収めておきたい。ただ、現代風俗を二三流してしまっている部分は後の推敲によって言葉を選ぶべきではなかったかと残念に思う。
だが、私はこの作品を傑作として持ち上げるのに疑いを持たない。少なくとも、先に延べた「枕草子」を想わせる美しさに戦慄さえも覚える。
さて、島田雅彦著「ミス・サハラを探して」が、とある批評家によってコテンパンに的外れな部分を指摘され扱き下ろされていたが、「語り手の事情」はどうなるであろうか。
私にしては、非常に珍しい形で、書評らしい書評として此処に筆を置きたい。
update: 1997/11/30
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