書評日記 第366冊
『落語的な饒舌体が延々と続く…』という批評を読んだことがあるのだが、私には素のまま通じるようなおもしろさを感じることができた。帯では筒井康隆が絶賛している旨が書いてある。絶賛するに足る内容ではないかと思う。
実は表題作である「くっすん大黒」よりは、もうひとつの作品(題名を失念)の方がおもしろさが倍増しているような気がする。むろん「くっすん大黒」を書いた上での技術的要素が洗練されて次の作品に生かされているとすれば、「くっすん大黒」の方が賞に値することになる。
つまりは、常に発展型である小説という形態に対して、町田康が本当の意味で「発展型」であるということだと思う。おもしろくなる要素を含み、さまざまな異種文化を融合し、その上で町田康という人間(または作家)が何を創り出すのか、または、彼自身という固有性というものをどのように表現していくのか、というところで町田康は「えらい」と思う。
最近の小説は饒舌型と云われて読む方も書く方も小説の中に冗長性を含めることが暗黙の了解になっている。かつての大正・昭和初期の短編嗜好の反動かもしれないし、最近のすぐに解答を得ようとする早漏的ないらだちを回避する意図があるのかもしれない。片方では文字を読むことを嫌う若者が大勢いるのだが、実のところは文字に極端に飢えている若者もいるというところだろうか。いや、文字というよりも会話に飢えているといった方が正しいかもしれない。相互の感情をたおやかな戯れの中にある一かけらの情念(…といったような現状描写も含み)に寄ることができなくなって、機関銃のようにあたるも八卦あたらぬも八卦という状態で言葉を乱射させてみて、膨大な情報の中から何が必要で何が必要でないのかを判断するとともに、決定的に他人でしかありえない都会という空間の中で「友人」と呼べるような者をひとり握りだけ掴み取ろうとする作用のような気がする。
現実というものが浮遊してしまって、TVの中に現実を求め出し、数々のしあわせの形式を目の前にして、自らの身の何もなさに気付き、その途端気付いたことを忘れるために饒舌と一瞬の快楽の中に身を潜める術を覚えてしまった人達の不幸、というものかもしれない。それが、冗長でしか表わせない感情を持ち出す。
ただし、「表現」というものは内面がなければ何もでてくるものはない。むろん、ひととしての生物的な嫌悪・好感は持ち得るだろうが、そのような科学物質の分泌だけに頼っていたのでは内輪でのコミュニケーションは可能ではあるものの、コミューンとはなり得ない。もちろん、そうする意味を現代社会はあまり必要としない。この辺は、個人主義が先決になっている現代では難しいところ。
で、ひとこと云うと、『くっすん大黒』は巷の饒舌型の小説とは全く異なる。むろん、分類をすれば饒舌型というラベル付けができると思う。ただ、それは批評家が付ける命名であって読者とは全く関係ない。当然、私自身にも云える。
何が…と問われれば、「かつて小説の持っていたもの」が『くっすん大黒』には含まれていると思う。言わば、巷の饒舌型の小説ないし小説家が持ち得ないものを『くっすん大黒』が町田康が持っているということだと思う。とある意味では古さとも云える。落語的な会話の中に含まれる掛け合いの妙技なのか、それとも大阪弁という閉鎖的な内輪要素なのか。落語と大阪が好きな私にはなんともいえない。筒井康隆が絶賛するのはそういうローカルな要素も含まれていると私は考える。
update: 1997/12/04
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