書評日記 第373冊
マリィヴォロン 戸川純、北村想
埼玉会館

 戸川純の一人芝居。作・演出が北村想。宮澤賢治の戯曲(と思う)を底本としたメタフィジックな演劇。
 
 第一印象は、戸川純はすごい、という感想である。すごいとしか云いようのない演技であった。これは、誰と比較するということではなくて、何処まで突き詰めても「戸川純」でしかない彼女の存在感が舞台を司っていた、ということだろうか。一人芝居だから、すべての舞台上の登場人物は戸川純ひとりの演技に掛かってくる。ある意味でひとりの作家が小説を形作るように、ひとりの画家が絵を仕上げるように、ひとりの演技者が芝居を構成するという、「芸術」に達する勢いというものが感じられる。むろん、演劇というものが総合芸術として複数人数の中から生まれる創造性に価値を求めるものだとしても、その一方で一人芝居が重んじられる要因はここにあるのかもしれない。
 
 一人芝居の中で一人芝居を演じるというメタフィジックさ。そして更にその芝居の中で演技と現実とが交錯するというところ。また、芝居を見終わって帰る場所に「大人300円、小人150円」という籠が置かれているという屈託の無さ。これらが完璧とも云える虚構の世界を作っているような気がしてならない。そう、私の目から見れば「絶賛!」に近い。多々、語り過ぎという場面もなきにしもあらず、というところだが「絶賛!」には違いない。
 
 多分、小説の中の小説では、小説を読むという姿勢がイコール非現実性を常に意識させてしまうのだと思う。これは、正論も異論も同レベルで議論されてしまう紙の上、という現実とは剥離したことであると思う。
 しかし、演劇において、舞台と観客席という境は、戸川純と観客、戸川純が演じる女と観客、女の演じる芝居と観客、という推移を演技者・戸川純が巧みにこなしていく中では、現実と非現実が渾然となってしまう。その証拠に、戸川純演じる女の演技に対して、観客は拍手を送る。その拍手は現実の演技者=戸川純なのか、それとも女への賛辞なのか、また、戸川純が観客を女に対する観客にしてしまうのか、というレベルの混在の見事さだと思う。
 このあたりは、作者(脚本家なのか?)の北村想の力量だと思う。
 
 ストーリーの中に「事実」が含まれることが、人の共感を呼ぶ。
 「ここにルージュがあります。私が手に握っていますからどちらか当ててください。答えは2回ですよ青木さん。右ですか? そう、右にはありません。はずれです。じゃあ、もう一度答えてください。そうですね、答えを云う必要はありませんよね。左ですよね。ほら、左の方にルージュがあります。私がここにいるのはこんなふうだと思うんです。右手は私のいない世界。そして左手は私のいる世界。そんなふうだとは思いませんか、青木さん」
 
 これを現代風に分析してしまえば、自分探しの解答だと云える。 
 文学界新人文学賞の批評で山田詠美が「でました。自分探しの小説です。自分なんてそこにいるじゃないですか。そこにいるのは自分でしょう」という考え方もしかり。
 このあたりは、会社以外、家族以外、学校以外、とにかく今の自分の居場所は自分のいる場所ではなくて、どこか自分の居場所というものは別のところにある! という逃避と願望とかない交ぜになってしまって、「今」という現実を見失ってしまった人達に対して、内面を見つめるという自分の見付け方を諮詢している。

 もちろん、戸川純も山田詠美も成功者(のように人には見える)からそういうことが出来るのかもしれない。逆に云えば、未だ成功者以前の自分をどう扱っていくか、また、「未だ」の部分が「未だ」であるゆえの達成としての現実をどう構築していくか、という手順を示しているのだと思う。当然、そこで、ひとはそれぞれの方法でしか成し得ない。
 
 外面から内面への価値。自分の価値は自分で決めるということが、閉鎖性になるのか、自分を認め他人を認めるという相補性に至るのかは、難しいところなのだが、兎も角、生誕100年になる宮澤賢治はそれなりに独自性を愛したといえる。
 
 私は、戸川純の演技を見て、そう思う。

update: 1997/12/12
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