書評日記 第372冊
つば広の帽子をかぶって 飯野匡、黒柳徹子
講談社

 副題として「いわさきちひろ伝」となる。
 少女を中心とした水彩画を描き続けた「挿し絵画家」である。ただし、飯野匡が云う通り、彼女は芸術家として評価される(つまり、ピカソやゴーギャンと並び評される程度のという意味で)画家であることは確かなことらしい。
 私は子供の頃から、いわさきちひろや永田萌の絵に親しんできたので、いわさきちひろの絵が「芸術的」と評価されようと、「単なる挿し絵の甘い絵」と評価されようと、私の中ではあまり変らない。一時、その少女趣味のかわいい絵というものに対して、「男」として生きていかなければならない自分の姿とは離反するものを感じて、排斥するに至るのだが、今では、その甘さとして批判される部分は実のところは「女」個人としての世間に対する強さである、という感触を得ている。すなわち「優しさ」であるところのものは、巷で云うところの「地球にやさしい」という標語的なやさしさではなくて、芯が強くなけえれば、また、芯というものが内包されていなければ保つことのできない「優しさ」というものだろうか。その「優しさ」から出てくる数々の挿し絵(7000枚あるという)を見ると感じるのは、独立性でしか成し得ない強さなのかもしれない。
 
 男性である飯野匡という立場、劇作家である飯野匡という立場が、いわさきちひろという女性の画家を評価することに対して躊躇する面がこの本には散見する。いわば、大正リベラルから培われた自立する女性・主張する女性(今は、「女性=ひと」と言い換えたい)が男性社会における結婚・妻という立場に追い込まれることを「自然に」嫌っていったという経緯に戸惑いを隠せないのだと思う。だから、いわさきちひろの行動力は、林芙美子に匹敵するような気がする。また、そうでなければ、あれだけの絵を残すことはできなかったと思う。
 
 「天才」という形容詞をいわさきちひろに冠してしまうのは易しい。だが、私としては「天才」という世間ずれを意味するような評価の下し方ではなくて、もっと民間に近づいた形でのいわさきちひろという挿し絵画家への接し方をしたい。
 これは、私自身が幼い頃から接していた・好んでいたという経緯から遊離しない。むしろ、親しんできたものに対しては親しんできたものなりの接し方・愛で方というものだろうか。そういう意味で、私の目からいわさきちひろの絵を客観視するのは難しく、歴史的な画家として枠に入れてしまうほど、有名な存在として崇めてしまうのには多少反発を覚える。むろん、自分の中にあるいわさきちひろ像への愛着を込めて、というところだろう。
 
 先駆的な女性、という形でいわさきちひろを捉えるのはた易いかもしれない。かつて結婚・妻という選択肢がほとんどであった女性の人生の中で、そこから脱するには絵を描くことしかなかったいわさきちひろは、どっちにしろ画家に為るべくして為ったというような気がしないでもない。逆に云えば、彼女には結婚・妻という世間の常識的なしあわせは幸せではなかったということに過ぎず、彼女にとっては絵を描くことに自分を集中させることが一番であったということだと思う。
 だから、闘争という形でウーマンリブ、キャリアウーマンを自認しなければ女性の独立がなしないという訳ではなくなっている。むしろ、その闘争しなければならない、という切迫感に苛まれてしまい、疲れてしまった人達が多くいるということが、現実の厳しさを正しく示していると思う。現実とはゆっくりとしか動かないものだ、ということを認識すれば、内面の中に「自分」を発見することがこの忙しい現代社会には必要(それが逃避的に見えようと)であるような気がする。
 
 黒柳徹子は「いわさきちひろ館」の館長である。つまりは、黒柳徹子の独立性・独創性と相通づるものが彼女の中に続いているということだと思う。

update: 1997/12/10
copyleft by marenijr