書評日記 第383冊
一緒に遭難したいひと 西村しのぶ
主婦の生活社

 西村しのぶは「スタイル」を持っていると思う。それが、独自のスタイルであろうと、神戸のスタイルであろうと、巷の雑誌にあるシティ・スタイルであろうと、何でもよいのだが、自分の好きな「スタイル」というものを西村しのぶは持っている。神戸という街に固執して、自分と同世代の女達(つまりは、25歳前後)を堂々と描いてきた功績は大きいと思う。「偉い!」と絶賛するに足る。
 
 彼女は女の視点からきちんと恋人なり結婚なり社会なりファッションなりを眺める力を持っている。ひょっとすると、そういうやり方しか彼女は知らないのかもしれないが、それは悪いことではない。少なくとも、「成功」に足る結果として数々の漫画を残している。
 槇村さとると並び、トレンディ(あえて死語、だから、トレンディ)さを作品の中に入れ込む。それが巷の純文学がテーマにしている「風俗」なわけなのだが、そこは時代から取り残されてしまいつつある純文学とその作家達とは違って、時流に乗る形でひとつひとつの波を乗り越えて来た漫画と、そしてそれを描く「ひとりの」漫画家という形で、西村しのぶは、自分の好きな神戸というスタイルを作品にしていく。
 
 これは、単純に大坂で大学を過ごし、京都・神戸へと遊びに(とはいえ私の場合は古本屋めぐりだけど)行くことが多かった私だからかもしれない。そういうローカルな結びつきも「一緒に−」には持っているのだが、内輪という閉鎖性ゆえの陰鬱さではなくて、常にスタイルを形作る西村しのぶの姿は私にとって憧れに近いものを感じさせる。

 普通は、恋愛物語を作ろうとするとき、切迫感を入れることで作品としての緊張を高めようとする。流行のTVドラマだってその域を出ていないように思える。だが、「一緒に−」で描かれるのは、そういうTVドラマを眺め「あははははは、こりゃひえでぇや」と笑える程度の寛容さを持ちつつ、同時に、ドラマツルギーの中に自分を置くことを厭わずに、ニヒルではなくて、暖かみを持って、そして、自分のスタイルで街を闊歩できるだけの気品と自信を持ち得るひと、というところだと思う。
 「人間らしさ」というところだと思う。少なくとも、27歳の女性、「若い娘」としてちやほやされる時期を過ぎた時、また、過ぎつつある時、さて、どうしたものか、という時に「自分」を支えているものはなんだろうか、ということだと思う。
 そんな「自分探し」の中で、様々なカルチャースクールに通って、今いる場所以外のところに自分を求めて遁走してしまう悲壮さよりも、今ここにある現実の中でどうやってこなしていきましょうか、という、なんとかなる!、という程度の心意気というものの方がより現実であると思える。だから、「週二回ぐらい、あのバニーのユニフォームを着ないと気が引き締まらないのよ」という科白に含まれるのは、きちんと「独立」している心があるというところだろう。
 
 西村しのぶの描くライフ・スタイル(恋愛でも生活でも)は、単なる絵空事ではないような気がする。いわゆる、人生はひとつのストーリーであるということ。

update: 1997/12/17
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