書評日記 第382冊
性別と天才 クリスティーン・バタースビー
現代書館

 geniusには暗黙裡にgenderが含まれているのではないか、という疑問を提出した本。
 言わば、才能というものが世間一般に評価される時、男性優位の思想が暗黙裡にあるのだ、という指摘だと思う。
 
 私は幸い(と言っておく)にして男性であり、不幸にして男性である。だから、数々のフェミニズムの問題に関しては、女性の立場に立って考えることはできない。だが、男性の立場に立って女性の立場というものを考えることが可能である。これは、所詮、客観性というものは主観の域を逃れ得ぬものであるし、数々のフェミニズムの問題やジェンダーの問題が発生するのは、「男」という性別が現代社会の中でひとつの絶対的なステータスを持っていることによって、評価する方も評価される方も男であり、それらの価値の流通は男の価値観を中心にして巡っている、というところから逃れられない、だから、再認識をして自覚的な視点を得よう、というやり方をしようということである。
 様々な教育機関は男が作った社会に適合する形で各競争を行う。そもそも「自由競争」というものは進化論の自然淘汰から導き出されるもの(または、逆に進化論を自由競争をする理由にしてしまう)だから、ある集団には有利になり、ある集団には不利になるようにできているといってよい。となれば、男が社会に出て地位を獲得しようとして争奪を繰り返し、また、その争奪により発展が為され、同時に、それらの競争を推進する形でしか現代社会の発展が為されないのであるとしたら、そこにある「自由競争」とは、男の遺伝子論理から成り立っているといって良い。
 それは、まさに弱肉強食としての自然律であり、人間という生物が進化するためのルールであったわけなのだが、瞬時瞬時の生死に価値を置く野獣の世界から脱し始め、社会生活・文化生活という形で、多人数集団としての共存の場を取入れるようになってきた(当然、猿から進化した人間が集団性に対して価値を置き、淘汰の中での武器としてきたように)時、単純な腕力ではなく智恵を付け始めた、ということだと思う。
 
 そんな現代社会の中で「才能」とは何か、ということが問題視・再認識される。天才とは何か。突飛なアイデアや突飛な発想、世間ずれした行動性、執拗さ、偏執的な集中力、それらが社会の特定の部分を揺さぶるからこそ、天才は社会の中で得意な存在でありつつも、特異なまま許容される。むろん、アインシュタインのような天才もいれば、ニーチェのような天才もいるし、サドのような天才もいる。ただ、マスメディアの中で使われる「天才・異才・奇才」という形でなんらかの価値があって許容と排他(つまりは特別視)が同居したところにおいて、トリックスターとスケープゴートを一体化させてしまい、だれもがマスメディアに出ることを望み、また、マスメディアに名を載せることが天才の不可避な条件であるとしたら、それはあまりにも才能というものを近視的な見方にしてはいないだろうか。
 そして、男である私は、そもそも「天才」になるということが幸せであるのか、または、「天才」を集団が欲するに従ってかの人が天才になることは幸せであるのか、という考えに至る。

 少なくとも、自分ひとりで才能ある人をはっきりと見出すということは、己にある各個性を熟知する必要がある。これは時流(特に世間体やマスメディア)に流されない、長いスパンでの才能の検出、または、己にあるひとつの仕事をやり遂げるに足る土台を用意してくれる。
 だから、自分の目で見て感じるものをより一層感じよう、という主旨が女の創るフェミニズムから得られる男の私の第一の感想であり、だからこそ、相互関係としての支援・認知・同意・許容・協同作業・進言・思考・意見を私は惜しまない。

update: 1997/12/22
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