書評日記 第385冊
私の部屋に水がある理由 内田春菊
文春文庫

 女性が日本をリードし始める。これは男性が弱くなったとイコールではない。単にもともと弱い男性が男性社会によってゲタを履かされて高くなっていた分、それが外されたに過ぎないのだと思う。
 もちろん、「女性優遇」という言葉の裏にあるのは付き添いの男が金を落とせばとか、金を持っている男を呼び寄せるための餌であるとか、金銭的に儲かるか否かという資本の競争社会=男性社会であるということ忘れてはいけないと思う。つまりは、女性=商品であるうちは、ちやほやされる。だから、売れる女性が「売れる」のである。
 
 そういう中で、山田詠美や内田春菊や黒木香のような抜群に強い女性が表に出てくることはどうなのだろうか、と最近疑問に思い始める。もちろん、私は男性であるから、根本的なところでは女性の立場に立ち得ることが出来ない。そういう意味では、男性は男性の立場から見て、女性は女性の立場から見て、という「住む分け」をした上で、互いの見えないところを補っていく、という考えの方が正しいような気がする。
 少なくとも、『私たちは繁殖している』はそう。
 
 上野千鶴子が男性と対談する山田詠美を評して「どうして詠美ちゃんは男の前では馬鹿なふりをするのだろうか」と好意的な批判を『女遊び』でしているけれども、私から見ると、どうも女として添うなざる得ない立場というものが「対談」の中に備え付けられてしまっているような気がする。つまりは、ちょっと頭の冴えたおじさまとちょっと馬鹿めな女、という構図が売れるのであろう。
 これは富岡多恵子が『男流文学論』で云っているのだけれど、「知的な男ってセクシーじゃないよね」という科白と似ているのだと思う。
 となれば、山田絵美や吉本ばななが嬉々として村上龍の解説を書いてみたり、杉浦日向子の漫画の解説に嬉々となって出てくる男性作家と似たような「気味悪さ」を私は感じる。
 
 話がずれているが、『私の部屋に−』の中で、何かを物して語っている内田春菊の言葉はまったく面白くない。池波正太郎が様々なものを見て蘊蓄を傾けるようにしたのかどうかよくわからないのだが、ひとつの一般的なものに対しての視点は、あまりにも俗物っぽい内田春菊があるだけで、私には詰まらない。
 むしろ、ちょっとマニアックな彼女自身の趣味の部分で、熱っぽく語って、解からない人もいるかもしれないけれども私はこういのが好みなのだ、というような自己主張っぽいのが私には好感が持てる。そして、そちらの方が文章が上手い。
 多分、担当者だとか雑誌の向きだとかによって違っているだけなのかもしれないが……。
 つまりは、根っからの漫画家であり、「表現者である」ということなのだと思う。

 そういうところで、内田春菊は女性を代表して男性社会に立ち向かうわけではない。ただ個人としての「内田春菊」がいるだけに過ぎない。
 秋山道男と岸田秀に感謝すべきかもしれない。
 そう、岸田秀はフロイト派であるけれども、内田春菊はフロイト派ではなくて、岸田秀学派だと云う。このあたりは同感。日本には、日本なりの心理学が存在するはずだ。
 だから、私は河合隼雄派。

update: 1997/12/26
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