書評日記 第386冊
浅羽通明の「社会学史」の中で小林信彦の本を紹介していて、その小説の中にある家の話は渡辺武信著『住まい方の実践』の引用がある、という形でこの本を読む。
私の本の広がりはこんなところに端を発している。
現代、マイホームなんて夢のまた夢、のような気もする。サラリーマンという職業を続けるならば、数千万円の家を買うために借金をして、その借金を返すためにサラリーマンという職業を続ける。そんな生活の仕方に疲れた人達は、マイホームをきっぱりと諦める。
ただ、どこにでもマイホームは転がっているもので、当然、町には家があり誰かが持ち主であり、誰かが住んでいる。このあたり、私には不可解なことが多い。
まともに働く気がなかったので「家」という目標が私にはなかった。これが過去形の文章になるのはこの本を読んで再び「家」を考え始めたからに過ぎない。別に街中に住みたいわけではない。豪邸に住みたいわけではない。リゾート地に住みたいわけではない。もっと田舎、もっと不便、もっと都会から離れて、夏は暑く冬は暑く(逆でもいいけど)、新聞なんて一週間に一度でいいし、TVなんてなくてもいいし、ちょっと広めの家に、ぼちぼちと住んでいられればそれで充分のような気がする。
これが、世間体に云って贅沢かどうか解からない。だが、過疎地に住んで、仕事は物書きであれば、いいかな、という気持ちが昔からある。
まあ、6畳一間で、新宿まで20分と掛からない阿佐ヶ谷に地も捨て難いのは同じなのだが……。
借家だから肩身が狭い、歳を取ってからどうするのか、相続が云々、という話は私にとっては別世界のこと。イギリスとかオーストラリアで余生を送る(余生があればのハナシ)のも悪くはない。だから、ギターを弾いたり、パスタを茹でたりする。
家というのは履き物と同じでなじめばなじむ程良い。そして、使わなくては意味がない。装飾品ではない。
これは男だからそうなのかもしれないけど、生活とは切り離されたところに「家」がある。未だ家族なんてものは遠いはなしだし、独身で過ごすの悪くはないと思っていた(これも過去形)ぐらいだから、貸し家で一生を過ごすのも捨て難い。
私はいわゆる贅沢をしない。借金は恐くてできない。将来が不安なのに借金なんていう自分の将来を決めてしまうことなんて手が出せない。だから、すべては「現金」なのだ。そして、現金であるからこそ先行きは自由になり得る。だから、物すごい傲慢な話だけれども、今、ちまちまと貯金をしたり積み立てをしたりする気が毛頭ない。毛頭ないのだが、一応のラインは守る。その程度しか、サラリーマンという職業には幅が残されていない。と私は思う。
だから、1億稼いでしまったら、あとは田舎に行って「家」を買うのもいいかもしれない。平屋で畑があって、バスは1日朝と夕方しか来ないような過疎の土地にでも「家」を買って、私の贅沢を満喫したい。
そして、物書きをして過ごす。または、せわしない日本を捨てる。
そんな夢が持てる本。
update: 1997/12/26
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