書評日記 第387冊
文学王 高橋源一郎
角川文庫

 TVに出ている作家は碌な人がいない、というのが通説。
 これは高橋源一郎も逃れ得ていないと思う。
 ただ、私は最近TVを見ていない。部屋にはTVないので見ることが出来ない。だから、高橋源一郎がTVでどんな愚行を繰り返しているのか良く知らない。
 
 『さようならギャングたち』・『文学がこんなにわかっていいのかしら』を読むと、私はとても安心することができる。同じように少女漫画を好み、同じように小説を乱読する。押さえるべきところは押さえてあり、後は個人の好み次第、という好ましい個人主義も嬉しい。好きなもの好きだと云える態度と、その理由を云う。そこが偉いと思う。
 
 彼はほんとうに小説が好きだ。本が好きで本を読んでいるし、好きだからこそ誰かに紹介してたいと思って『文学王』を書く。「文学が−』もそうだけれども、いろいろ技巧を知っている。それを使いこなすことが出来る。ある意味では器用貧乏なところがあって、大作を書けない不遇な作家かもしれない。だから、彼は文学評論にいそしむ。そんな姿が私にはいとおしくみえる。
 多分、もうちょっと遅く生まれていれば彼は小説の波に乗ることができたのではないか、と思う。様々なアニメが様々な既存の小説を読んだ人達が作って来たことを知って、そして、同世代的に小説を書くことができたのではないか、と思う。だけれども、ちょっとだけ生まれるのが早すぎたような気がする。ファミコンだとか少女漫画だとかアニメだとかを熱っぽく語り、今や市民権を得てしまった「おたく」になり切るには、彼は歳老いている。
 
 『群像』に連載されている『日本文学衰退史』の古典趣味は並みではない。並みではないのだが、果たして彼のような古典趣味の読者がどれほど要るのだろうか。そして新旧混ぜ合わせた彼のスタイルにどれほどのファンがいるのだろうか、私は不安になる。
 
 私はミーハーを意識している。だけれども、ミーハーは嫌いである。マイナーを愛でる最近のミーハーは胡散臭いと思う。だから、自分の中にミーハーを守ろうとする。そんな中で決定的なマイナーであるハードSFやマニアックなアニメやジャズやニューミュージックが私を支えてくれる。そして、数々の大正・昭和の文学を読むたびに思うのは、同時代性とはなるべきしてなるところなのだ、という実感である。
 
 彼は「現代詩と呼ばれるものは様々にあるようでいて実はひとまとまりになる」と云う。それはその時代でしか為し得なかった「時空間」だと云う。そう、時間の円錐、『存在と時間』を理解した上でしか語れない高橋源一郎の言葉は、解かっている人しか語ることのできない適切な用語をたくさん含んでいる。また、それらを知り得ていなければ出てくることのない用語が適切に配置される。それが私には心地良いし、それが彼を好む理由なのである。
 
 澁澤龍彦や荒俣宏に続くのだろうか。文学の世界を知り尽くそう、学問的にではなくて、小説を楽しむ読者として読み尽くそうという意欲は私に希望を与えてくれる、と言っても過言ではない。

update: 1997/12/26
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