書評日記 第389冊
ブックライフ自由自在 荒俣宏
集英社文庫

 本に囲まれて生きようと思えば、本に関係する職業が最高である、ということを実践しつつある人。
 
 当然のことだけれども書物はだんだんと増えている。そして減ることがない。毎年2万冊に及ぶ本の中でどれだけが読むに値する本なのか、という議論は兎も角、一生のうちに精読できる本はたかが知れている。だから、どの本を読むのか常に決めていかないと読まぬまま知らぬままに一生を終える恐れがある。
 だが、これが本当に「恐れ」であるかはあやしい。一生に読み切れない本が現在の時点で存在していて、そして私自身が生きている間も絶え間なく本が出版され続けているのだから、すべての本を知ろうなぞという目的は実現不可能な妄想に過ぎない。
 そうなると、本を選ぶという手段が介在してくる。もちろん、自分にとって下らない本や役に立たない本や面白くない本が現実にはゴマンと存在する。どのような選択基準に従っているのかどうかは関係なく、読める本は限られている。だから、他意であれ自意であれ、なんらかの意識下に於いて本と人とは出会う。
 
 過去にたくさんの本を読む。または、読まない本がたくさんある。読みたい本がたくさんあり、決して読まない本がたくさんある。そういう無限とも云える本の海に自分を置いた時、どうやって本を選ぶのか、どうしてそのような本を読んだのか、ということが不思議になる。
 確かに最初に読んだ本があったはずで、その本は誰かから貰ったり、勧められて自分で買ったり、または、偶然本屋で見つけたものを買ったりしたはずだ。これは最初に限らず、あらゆる本がそういう手順を踏む。
 
 たくさんの物書きの人達がいる。彼等は本をたくさん読むかどうか私にはよくわからない。最近の作家はあまり本を読まないそうだが、私の読む本の作家達は本をたくさん読む。
 かつて『本は体験なのか、それとも疑似体験にすぎないのか?』ということに悩んだ。小説を読む時、主人公に感情移入をして本の中で遊ぶ。それは疑似に過ぎないのか、イコール体験に匹敵するものなのか。数々の歴史小説を読み、その中での歴史上の人物を体感する時、それは「疑似」なのだろうか。
 今では答えが出ている。小説のストーリーや雑誌での外国の紹介や絵や図鑑や人物や歴史や建物がどうあろうとも、少なくとも、その本を読むという行為は体験である、ということだ。本を読む行為そのものは、本を読まない行為とは全く違う。そこが大切であることを今の私は知っている。
 だから、私は読書というものを、あちこちの出歩くことによる出会いと同じレベルで認めることができる。

 考えることが罪であるかどうかを考える以前に私は本をたくさん読んでしまった。たくさんの本に出会うことは、たくさんの人生に出会うことと等しくなる。だから、考えることによってしか私は解決しない。それが、なにかの問題を創り出しているとしても考えることによってでしか、私は楽しくなれない。
 
 荒俣宏は数百万円の古書を買う。世界に一冊しかない本を持ち眺める楽しみは、資本主義の中での所有欲としての罪悪かもしれないけれども、ばかすかと酒と快楽に金を遣うよりは幾分マシかもしれない。
 多分、荒俣宏がどうして働くのか問えば、本を買うためだと答えるだろうし、彼はその本を買うために本を作っていると胸を張ると思う。
 ある意味では自慰的な閉塞状態に見えるかもしれないけれども、ひとが何をして生きるのかと云えば、そういう嗜好を広めるためなわけだから、それ以上の理由なぞひとつもなく、ひとは他人のことを自分が理解できる程度にしか理解できないのだから、共有せざるひとには理解し難いものと映ってもなんら不思議ではない。
 
 どこに幸せがあるのかといえば、自分の行動の中にあるのだから、荒俣宏は幸せなんだと思う。それが、傍目にどう見えようとも、彼は彼の道を知っている。
 それが私には少しうらやましい。そう、以前ほどうらやましいとは思わなくなった。なぜならば、自分を幸せにする方法をすこしだけれども掴みつつあるからだと思う。

update: 1998/1/7
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