書評日記 第390冊
『アラベスク』は私と同じぐらい古い。だが、其処に描かれるストーリーは確実に槇村さとるを魅了しているように思える。槇村さとるは『愛のアラフェンス』でフィギュアスケートを日本人で描き、山岸凉子は『アラベスク』でバレエをロシア人で描く。
『アラベスク』と同時代である少女漫画を思い浮かべることができないので、どれだけの賞賛をこの作品に与えれば良いのか私には見当しかねるのだが、彼女の独自性はそして独立性は決して並みではないと思う。
それを単純な「天才」という言葉にして表わしてしまうことを私は恐れる。なぜならば、かつて『日出処の天子』を読んだ時、私は彼女の絵を拒否したからである。未だ彼女の絵の線に慣れていなかったこともあろうが、私には彼女の孤高性があまり心地よいものとは思えなかった。
私はひかわきょうこの『荒野の天使ども』が少女漫画への意識的な出会いであり、『悪魔の花嫁』が無意識的な出会いである。
少年漫画の頂点に手塚治虫が居たように、少女漫画の頂点に山岸凉子の『アラベスク』があったとしても文句はないと思う。『ベルサイユのばら』とは違った、共感というものが『アラベスク』にはあると思う。
何故ひとはひとに近づこうとするか。何故ひとは何かをしようとするのか。自分の中にある「才能」とは何なのか。自分ができることは何なのか。
今の私は誰もが何かの「才能」があるのだ、という能天気な科白を吐けない歳になってしまった。それは、「才能」とは勝ち得るものであって、あらかじめ備わっているものではないということ。何かの運命に導かれるような道筋が必ず過去にあること。それが一貫した道であるがゆえに積み重ねの体験の連続からある一点に落ち込んでいくこと。誰しもが何かの「才能」は持っているのだろうが、それを開花させるにはある一定の環境が必要であるということ。
それらが一致した時に「才能」は世に出ることができる、と私は思う。だからこそ、「機」を大切にしたい。そして、「機」を待つ忍耐力とその間の準備が必要になると思う。
そういう当たり前のことが『アラベスク』のストーリーの中にあり、山岸凉子が『アラベスク』を描く姿にあると私は思う。
それが個人的な感情を共有する時に起こる確かなものを得た時に起こる喜びと安心感ではないだろうか。
update: 1998/1/9
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