書評日記 第391冊
第一回三島由紀夫賞受賞作。これはあまり関係ない。
高橋源一郎の描くストーリーは優美だと思う。品があるとも云う。庄司薫の小説に似ている。
多分、高橋源一郎は本当の意味での「愛」を知っているのではないだろうか。それは出所が無限であるところの愛の姿を知っていると思う。着飾るまでもなく美しく、優雅であり、世俗とは全く別の次元のところにあるものだけれども、あくまで世俗の中にしか存在しない平凡さを含めた、今となっては特殊となってしまったような「愛」を彼は知っている、と『優雅で−』で私に思わせる。
ひょっとすると作家・高橋源一郎と人間・高橋源一郎は同一人物ではないかもしれない、という不安が私にはある。小説から見える高橋源一郎は世俗の中にある高橋源一郎とは全く違っていて、私が勝手に描いている幻想としての高橋源一郎であるかもしれない。
だが、もしもそうだとして、何が変わるのか、という想いが私の中には沸き上がってくる。それは、私の好む高橋源一郎でしか『優雅な−』を書き得ることができないこと、『さようならギャングたち』を書き得ることができないこと、が証拠になっている。
だから、高橋源一郎の書く小説はいつも優美であるのかもしれない。
とある批評家が『筒井康隆の小説はリリカルである』と言っていた。同様な意味で高橋源一郎の小説もリリカルかもしれない。
バランスのとれた男性は女性的に見える。これは当たり前のことで、バランスがとれていない男性から見れば、人間の中にある男性性と女性性を併せ持った男性は、女性的に見える。むろん、バランスのとれた女性は男性的に見えることも同様である。
となれば、高橋源一郎が少女漫画を読むのは彼の人生のバランスを保つ上で不可欠な要素かもしれない。つまりは、常に男の子を主張させ続けられてきた少年・高橋源一郎は、少女漫画に接することでみずからの中に自覚的な女性性を構築する必要があった、ということだと思う。
野球を題材にしているのは内輪な文学を更に内輪にするのかもしれない。だが、彼が持っている内輪が「野球」に象徴される連帯感だとしたら、彼が野球に関する小説を書くことが彼自身の想いであるのは間違いないことなのである。だから、『優雅な−』は野球を中心としているという誤読をしようとも、野球をキャンバスにしたおもしろい小説である、という見方をしようとも、どちらも間違いはないと私は思う。
それは、私の少年時代も「野球」が中心であったからかもしれない。決して野球少年ではなかったけれども、TVで見るプロ野球や球団のバッチを集めたり、野球選手の名前を知らぬうちに覚えたりするのは、少年時代の日常の中に「野球」が染み込んでいたに過ぎない。
だから、優雅であって、ちょっぴり感傷的な、この小説は、私の好みに合うのかもしれない。
update: 1998/1/9
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