めす豚ものがたり マリー・ダリュセック
河出書房新書 ISBNISBN4-309-20297-7
カフカの『変身』を思わせるストーリー、と云っておけば過不足ないと思う。ただし、帯に書いてある『この物語がどれほどの混乱と恐怖の種を撒き散らすことか−』に対しては、はっきりとNOと答えることができる。世の中の人達はそれほど暇ではない……はずなのだがフランス国内ではサガン以来のヒット作らしい。フランス文学って底が浅いと思う。
だが、この批判が彼女の作品を貶めることはないだろう。なぜならば、『変身』を真似した作品はたくさんあるのだが、『変身』を真っ向から捉えた作品はいままでなかった。すくなくとも私がであった中ではなかった。精神の変革をシュミレートした作家を挙げればP・K・ディックが筆頭になる。彼はプレコグ(未来透視者)を作品に日常的に登場させることで、現実世界を客観視する基準を用いている。同様に『変身』や『めす豚−』は肉体を変革させることで、主観と客観の差異を大きくさせて、外側から見られる自己=他己を自己と剥離させる。
一人称の告白文体、一切の改行なし、というスタイルは決して珍しいものではない。だが、それが奇異を与えるものにはならないのが『めす豚−』のすばらしいところだと思う。これは6週間で一気に書かれたと同時に、数時間で一気に読める作品である。だからこそ、一切の改行を省き、つらつらとした告白文体でしか為し得ない段階を持たない変革を示していると思う。
訳者・高頭麻子のあとがきは、あまり適切とは云えない。この作品は動物がテーマでもフェミニズムでも娼婦でもない。対談でも語っていたけれど、政治的に抑圧されて公共機関がストップしてしまい、そういう手ひどい停滞を招いてしまった自分達に対して呆然となってしまった時、何か立ち直らなければならない、という切迫感から出てきたものだと思える。
雌豚として藁をはむ主人公は彼女自身の責任において其処に至る。それがメス特有の娼婦的な安寧なのか否か、という議論は妥当とはいえない。ダリュセック自身が語っていたように、主人公には教養がない。教養がない女性がフランスで生きるとしたら、こういう場所に落ち着くだろう、という結論である。また、次回作は教養のある女性を、と語るように、現フランスにおける学歴絶対主義が彼女の視野の限界を示していると云っても過言ではないだろう。しかし、それは彼女自身の落ち度にはならない。すくなくとも現時点において彼女を不幸にするものではない。
たぶん、ダリュセックは通勤バスが止まってしまった時に人生最大の苛立ちを感じたのではないだろうか。飢えてしまったり、決定的な差別を受けたり、生まれながらにして受け入れられなかったり、というような不幸ではないだろう。それは、400通ものラブレターを書き続けたカフカのような不幸さだと思う。
だが、そこから出てくるものは、決して打ちひしがれた個人的な絶望でないからこそ広まるべくして広まるものであって、絶対的な絶望ではないからこそ、繊細さを主とする文学性があらわれてくるのではないか。
プーラン・レヴィのような境遇ではないからこそ書くことができた小説というものに対して、私は両者をどのように比較して良いのか悩む。だが、それらは極めて個人的な創造物として提示されるからこそ、気楽に(?)『変身』と『めす豚−』を比較することができる。
すくなくともダリュセックの真価は二作目以降で問われると思う。二作目があってこそデビュー作としての『めす豚−』が『変身』に匹敵する作品として昇華されるのではないだろうか。