書評日記 第416冊
櫻の園 吉田秋生
白泉社文庫 ISBNISBN4-592-88321-7

 大学の頃に読んだ。映画も見た。チューホフも読んだ。チューホフの演劇も見た。
 当時、漫研の中では『桜の園』の映画は評判がよくなかった。少女趣味というか「少女趣味」趣味というか、志保の姿だけを取り出してレズビアンの嫌らしさ(?)に変形させて評価を下げていた。
 男性にとって「女子校」というイメージは巨大な幻想を含んでいると思う。私自身は共学であったけれども、さしたる男女交際なく過ごしてきた中学高校時代を思い出せば、理系ゆえに男の集団の中で過ごさざるを得なかった、という嘆息をついてみることもできる。ただし、正確に言えば、青少年らしい思春期(政府の言う「青少年」ではなくて)を過ごすことがなかった、漫画と小説の世界に没頭し続けた歪みであろう。ただし、個人であるかぎり多少の歪みは許される。ゆえに社会不適合と適合との間に自分を残して、ぎりぎりの路線を歩み続けた危うい私が過去にはある。

 そんな私から見る漫画『桜の園』の世界が理解できると言うのはおこがましいかもしれない。だが、数々の少女漫画に描かれる「男性像」たり得る自分を懸想し、同時に内在する自分の女性性に気付かずに過ごした私の27歳までの歩みは、『桜の園』を読み、さもありなんとするほどに、空想の女性像を極度に肥大化させるものであった。
 同時に独立心強く同時に独立してしまえる男性という性を持った時、男女の仲を意識せずに孤立して過ごしてしまえば、どこまでも独立してしまえる現代社会がある。『誰かが私の背中をしてくれる」のは時間だけだったわけで、ふと30歳間近になり高校の頃に既定した「死期」が近づくが毎に、不安と或る焦燥感の中で現実の「現実社会」をまざまざと見せ付けられた。
 私は人類の……という大袈裟な言葉を使わなくても、渋谷の職場へと繋がる通勤電車の中で「女」が如何に多いことかと知った。よく考えれば人口の半分は異性なわけで、当たり前といえば当たり前のことなのだろうが、理系→工学部という経路を辿った私にとって思春期を過ごすことなく高校時代を過ごしてしまったことが、これほどの精神的な負担になっていたことを私は知り始めるのである。

 あっけらかんと同時に恥ずかしいながらも女同士だからこそ言い合える言葉達を目の前にして思うのは、普通(?)の男性には男→女への幻想を打ち崩すものかもしれないが、私にはさほど淫靡にも聞こえなく退廃にも聞こえなく、ただ「開放」を待ち望む姿のみが昔も今も変わらかったという事実だろう。言わば、そこにいた人達はそこに居続けたのであって、今まで私が「見ていなかった」ということなのだと思う。

 人間性としての独立を求めるのは誰にとっても辛い作業ではあるのだろうが、男性社会においては女という性を抱いてしまった人達にとっては、更に辛いかもしれない。それらを後押しするのは私ではなくかの人なのだから、黙するのもひとつの優しさだと思えば、そうした方がどちらにとっても良い結果を生むに違いない。

 近藤ようこの描く「女性」は未だ闘争と懐柔の中にある。だが、ひとそれぞれの歩みに潜む絶対的な時代性を考えれば、吉田秋生が育った時代がひとつ良い意味で個人的になって来た、ということだろう。
 典型を求めるのも個性であり、特異を求めるのも個性には違いない。結婚・子育ても個性であり、キャリアウーマンを求めるのも個性である。上野千鶴子が聞いたら怒り狂うだろうか?

update: 1998/2/9
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