書評日記 第417冊
日本の悪霊 高橋和巳
河出文庫 ISBNISBN4-309-42010-9

 日本版の「罪と罰」。だが、「罰」を見つめる村瀬の姿が社会に寄るのに対して、ドストウェスキーの『罪と罰』は個人に集約されているところが違う。
 いわゆる「戦後文学」である。敗戦文学と言い換えてもいいと思う。社会的事実としての「敗戦」は決して日本国民ひとりひとりの責務が逐一問いただされるものではない。戦争を起こした日本、敗戦国となった日本、アメリカ正義の占領下に置かれた日本、を受け入れるための情況認知の手段として「戦後文学」は必要であったのだと思う。坂口安吾のように焼け跡から躍進する形で過去をすっぱりと割り切って、「敗戦」という事実を自分の外に置くことによって時代を乗り切る方法もある。また、「敗戦」という重みを自分の中に抱え込み、それを自覚し対象化させることによって両極としての国と自分を配置させる「戦後文学」としての方法もある。どちらにしろ、生きていく上で常々気になっている精神的負担の部分を散らせていく現状認識の手段である。

 最近、「日本の失敗」として第二次世界大戦に敗戦した日本の戦略を見直す本が出版されるようになっている。多分、戦争を起こしてしまうことへの罪悪を問うわけではなく、現在自国保護が激しいを行うアメリカ正義の批判の延長にあるものかもしれない。だが、過去の日本が面した(起こした)戦争という事実に対して「失敗」だの「何故負けたのか」だの「作戦ミス」だのという批評的意味合いを以って面するほど戦争に対して思慮深くなっているかといえばそうでもないと思う。少なくとも、南京大虐殺や慰安婦問題を教科書に掲載するにあたって議論されてしまうほどに戦争が起こした事実は熟慮されていない。「自国の品位」だの「うやむやな事実関係」だのと言っている間は事実を先送りにしているだけだと思う。例えば、アウシュビッツの事実を私達日本人は平たく事実と認めるだろうが、慰安婦問題は披露するには足りないとする日本人の姿勢は、どこかおかしくないだろうか。

 そんなところをひっくるめて、主人公・村瀬はある犯罪を犯す。いや、罰せられるように自らを仕向ける。
 だが、誰が村瀬を罰することができるのだろうか。裁判所も所詮どこかに「責」を負わせるための機関でしかない。「治外法権」という言葉通り法律は国に属する。罪とは単なる行為だから事実として残る。だが、罪となる行為を「罪」とみなし「罰」を与えるに足るのか否かは、それぞれの価値観に委ねられる。現代社会の法律では被害者のいない「罪」は存在しない。だが、個人として罪の意識は厳然として存在する。そんな事実認識の違いの中で村瀬は苦悩する。
 
 戦前の「羞恥心」は今に於いて失われつつある。恥をかけば自決するほどの勢いは今の男達にはない。更に社会的な基準であった罪意識も個人への罪悪感へと緩められる。規制緩和とは違ったところにある「自涜」という歯止めがなくなりつつある。
 かの道端に座り込み喋っている若い男女と私の共通点は非常に少なくなっている。かつての貴族が奴隷を想うように、と言ったならば、私は罪を犯すことになるのだろうか。

update: 1998/2/12
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