秘本世界生玉子 橋本治
河出文庫 ISBNISBN4-309-40320-4
柄谷行人の『探求』を思わせると言ったらおおげさだろうか。「ソドムのスーパーマーケット」は澁澤龍彦『エロティシズム』を読んでいる関係もあって魅惑的だという評価を与えるに足る作品だと思う。
私は『桃尻語訳枕草子』がNHK教育TVで放映されたのを見ている。当時はなぜに「桃尻語」なる形で古典を扱わなければならなかったか、ということは解からなかった。今でも解からないが、多少は理屈をこねることを私は覚えつつある。澁澤龍彦のように真正面から捉えてしまうと情報社会の中ではインパクトが薄れる。まさしく、「インパクト」という形で何かをぶつけられないと反応しない鈍感な世の中になってきている。情報が氾濫し続けて何が興味があるものなのか、何が自分にとって大切なものなのか、が解からなくなってきている。同時に、「大切なもの」があることさえ見失い始めていた世の中だったからこそ、「インパクト」が必要であって、ぶつかって来たものに無理矢理目覚めさせられることが必要だったと言える。
ただ、現在においては、「それぞれ」という流行的な個人主義がまかり通っているから、さしてインパクトを必要としない。逆に特異であるものに目を惹かれ続けている人達と、それらに飽きている人達と、はじめっから相手にしていない人達とに、社会は分裂してしまいつつある。だから、静かに喋るのも良し。声高に喋るのも良し。パフォーマンスに惹かれるのも良し。古典を持ち出すのも良し。専門に走るのも良し。というところだろうか。
ふと思う。橋本治は結構な歳のはずだ。1948年生まれは現在50歳過ぎ。うーむ。私の時代感覚は10年以上ずれているかもしれない。まあ、ここ10年ぐらいは寝ていたようなものだし……。
かつて先駆的であったものが現在の常識となる。これは当たり前のようだけれども当たり前とは思われていない。つまり、現在先駆であるものが将来において常識になるわけだが、たくさんある先駆の中で何が常識になるかは解からない。ただ、今常識であるものが将来においても常識であるということは余りない。特に排他的な常識は将来において非常識=古い考え方になる可能性は高い。ただ、現在の常識を踏まえた上で人々は大人になる。そして大人になった時、かつての常識に自分を添わせ、社会の常識に添わせて、徐々に変容していく常識にみずからを取り残していく。
私が危惧するのは、大衆思想、流行、非流行という流行、非大衆思想という大衆思想、という非常識こそが常識だと思われつつある現在の常識の中で、ひとびとは相当混乱しているのではないか、ということである。それが世紀末思想の氾濫現象・模索としての進化であるといえばそれまでなのだが。
とはいえ、私の世間は極端に狭い。時折聞く噂話と雑誌とでは世間を把握したとはいえないだろう。だが、取り残されている怖さはまるでない。むしろ、孤立している分だけ、ひとつ確固たる拠り所を得たような安心感がある。普通ならば現実社会にある会社での地位とか家族だとか遊び仲間だとかになるのだろうが、私の場合は「本」とその著者達である。20年前の本を読んで同意する部分がある。現在の小説も読む。そして、未来の小説を空想する。そんな中にいられるようになったのは30歳という年齢かもしれない。流行を追えなくなった、ひとつの分岐点が過ぎてしまった、決して戻ることのできない過去を持った、好き嫌いが自分がどうしようもなくなった頑固な自分を持った、ということが何かに対して諦めるだけの余裕を得たような気がしてならない。
エロスという言葉が巷に溢れ、雑誌にも氾濫する。私から見れば、あまりにも「お遊び」的なエロスへの嗜好は非常識を弄ぶ流行に過ぎないような気がしてはらはらする。エロ本とジュネが混雑する。青年雑誌には常にグラビアが挟まれる。愛という言葉を発するピンク色の女性雑誌。結婚相談所。文通コーナー。「奥さん」という言葉。不倫ではない不倫。性に関する本の文庫化。
隠されていたものが表に出るのは自由だ。が、晒される無知な無思考な人達が多すぎる。片方で未成年のナイフの携帯を規制する法令がでる。援助交際を東京都が規制する。「むかついたから暴れたかった」という理由のない理由がニュースに頻発する。理由付けを嫌い、同時に理由への模索を止める。
それこそが「常識」が必要な要素なのだが、その無神経さを私は嫌う。