書評日記 第422冊
太陽と鉄 三島由紀夫
中公文庫 ISBNISBN4-12-201468-9

 『太陽と鉄』と『私の遍歴時代』の2つが収められている。解説に『読者には、まず後者、つまり「私の遍歴時代」から読み始められることをすすめた』とあるのだが、私は一番最後にある解説は一番最後に読むので内容を読み終わったあとに云われても困る、と思う。本多勝一ではないが、文章は前から後ろへ読み進めるものだから、前から後ろへに読んでいることを意識して書いて欲しいと思う。つまりは、この解説者はいつも解説から読み始めるのだと思う。
 
 『太陽と鉄』という題名通りの堅い文章。硬直した固さではなくて堅牢なという固さ。だから「かたい」という言葉に「堅い」という漢字を充てる。この違いが三島由紀夫の文章の特徴ではないだろうか。
 いわゆる美文たる美文。彼自身が語るように脂肪が削ぎ落とされた筋肉の味わいというところだと思う。それが小説家であれ非小説家であれ三島由紀夫という人物の根本なのだと思う。
 作家というものに対する憧れは作家になってしまえばさほど盲信ではないかすれた現実の中に薄れていくものかもしれない。それは「作家」に限らず、少年の頃に思い描いたとある職業への憧れの中には金銭的な欲求はほとんど含まれない。大人から見れば名声と金銭の裕福さは同一位置にあるものだと知るようになり、対してみずからの貧しさ――それが名声であれ金銭であれ――を省みて遠い望みのものとして語ってしまうのである。ほんの一握りの人達が幸せに見えるのは、ほんの一握りであるからこそ、であり、その境目を越えるのはちょっとした「向こう見ず」ではないかと思う。
 大江健三郎の『見る前に飛べ』という題名、また、臆してしまえばいくらでも不安が残る靄の中にある向こう側は、飛んでみなければ解からないほどの現実性が其処にあるだけに過ぎない。そんな中で目の前にある時代性と、自分を育っててきた時代の間で、ひとは何かを盲信し、そして、人から云えば「非凡」なるところに飛び込んでいくのだと思う。
 
 果たして、三島由紀夫に才能があるかと問われれば、私はあったかもしれないと答えるだろう。特異な人物ではあるが、広い世の中にはその特異さは決して突出しているわけではないことを私は知り始めている。つまり、誰もが何かに気が付いた時に湧き出る一瞬の光に劣るのかもしれないということである。だが、継続こそが人生であり、作家たる三島由紀夫があったのだと思えば、一瞬よりも必須であるのは彼自身の思い込みではないかといえる。
 世界は広くなり過ぎたと思う。だから、日本以外の作家も含めてそれらの肥沃な作家群の中でなにもかも抜きん出ることは不可能に近いかもしれない。だが、ほとんどの作家は無名であり、ほとんどの作家は日本語に訳されていなくて、ほとんどの作家は未だ作家ならざる人として生活しているのだと思えば、長い人生の中で一度も交わらないままで自分の思い込みを思い込みとは知らずに過ごしていくのも偶然なる幸福だと云える。

 彼自身、時尚遅しという形で古典趣味であったと自白する。その姿は今でこそ解体されてマスコミの一端を担ってしまった作家という職業であればこそ、自嘲的な自白が許されるようになったといえるが、「文士」たる者という形で自己を束縛し続け軍隊的な筋肉から及び出る精神から紡ぎ出される数々の文章の対して、それらの自嘲を小説の中に潜り込ませるにはあまり小説を「小説」として捉え、同時に、片側にある彼自身の発言を束縛していたのではないだろうか。
 いわば愚痴を「愚痴」と捉えてくれるような気安い仲間がいなかったからこそ、彼は彼自身を危ういまでに独立させ――事実、自決までに至り――ることが可能であったのではないか、と思う。
 ダンヌンツィオに追いつけなかった時代性を考えるのが良かったのか、それとも、追いつけないことを知らずに爆走することによってでしか数々の美文を残し得なかったのかよくわからない。
 ただ、すべてを網羅するには短い人生があるに過ぎない、というところだろうか。

update: 1998/2/17
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