書評日記 第421冊
エロティシズム 澁澤龍彦
中公文庫 ISBNISBN4-12-201125-6

 昨今のエロス関係の本が私にとって嫌悪の対象になるのは深みが無いことが理由である。澁澤龍彦や高橋鐡や橋本治のエロス関係の本を読むのはそこから何かが広がっているからである。私がフロイト心理学を毛嫌いするのは分析し分類してしまい類型化させてしまうからである。逆にユング心理学を持ち出すのは個を対象にして一点から派生するからである。
 澁澤龍彦のサド文学を中心とするフランス文学への洞察は並みではない。だからこそ澁澤龍彦としてのスタンスを築くに至るのだろう。私以外の澁澤ファンはどうなのだろうか。エロ本や最近の性の本と同列に扱うのであろうか。

 私は「恋」は文学が作ったものだと思う。単純な生物愛以外は文学というミームが氾濫して始めて生まれたものではないか、と思っている。というのも、安部公房が『すべての小説は恋愛小説の変形である』と云うように小説とは惚れるものであって、惚れ込むということはナルシズムに他ならない。かつて「性」は罪悪であったが、解体された現在の「性」は罪悪にはならない(とひとは云う)。ゆえにかつての性は悪という離反した形で為さねばならなかった隠された行為であったのに対して、現在の「性」は肯定されることによって公開してもかまわない理由を帯び始めている。
 ただ、無氾濫な性として援助交際だの売春だのSMだのという形で「正しくない」性として扱われた時は決定的な悪としての烙印を押すことになっている。それが正しいか正しくないは世間的な常識に至る。また、個人的な常識の範囲(当然、自分の都合も含む)で性を見る。

 教科書では性を扱うことはできるが、性愛は扱うことができないし、恋を扱うこともできない。大抵の人はひとつの性しか持っていないから異性の異性たる部分は想像の域を出ない。すくなくとも自分の性よりも身近になることはない。だから、見えぬ部分を平等に教えておき極端な偏見を取り除いておくことは社会の安定として必須である。ただ、澁澤龍彦の扱うエロスに誰もが至るべきかと問われれば当然!と答えたいところだが、そうはいかない現実がある。それこそが性に対する個性化だと云える。

 一生、澁澤龍彦という名を知らない人、読まない人だっているに違いない。興味がないか、知りたくないか、毛嫌いするかは別として、「エロス」という言葉からエロ本しか想像しえない貧弱な想像力のまま一生を過ごす人も多いと思う。
 ただ、何故そこに性が描かれなければならなかったのか、という時代性とそれ以降にある現代社会を思い起こせば、何事も無縁というものがないことを知ることができる。そういう部分に澁澤龍彦はいるのではないだろうか。

 と、書いてみるのだが、かつての私は興味と嫌悪がないまぜになって性を真っ正面から見詰めることを避け続けていた。ただ、取り上げ過ぎるのも難だと思うのだが、ふと取り上げてしまっても罪悪感がないのは澁澤龍彦というインテリゲンチャというカモフラージュがあるからかもしれない。

update: 1998/2/15
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