書評日記 第425冊
がんばりません 佐野洋子
新潮文庫 ISBNISBN4-10-135412-X

 始めに『ラブ・イズ・ベスト』を読み、『ふつうがえらい』を読み、本書『がんばりません』を読む。その前に谷崎俊太郎との共著(?)を読んだはず。

 私の場合、エッセーを読むのは珍しい。作品とは云えない作家の途中経過の思想を聞いたところであまり価値がないと思っているからである。ひとが様々であればこそ様々な生き方があって、それゆえに様々な考え方が生まれる。何にしても自分の生きて来た道をすべて知っているのは自分だけなのだから、ひと様にとやかく云われる筋合いのない人生が過去にあるわけだし、ひと様にとやかく云われる筋合いのない未来がそれぞれのひとの前にある。だが、そんな全く違うともいえるような人生を送った人達にどこか共感するものがあって、いくつかのエッセーを読むことがある。
 「文学」という学問が出来てしまってから、小説は文学になってしまったと思う。もちろん、夏目漱石をはじめとして数々の作家が日本文学を培って来たわけであるし、伍萬といる作家達や読者達が「文学」を作っていったのは間違いないことだと思う。ただ、そんな形式ばってしまった「文学」から、ひとつはずれた処で現実を行き、ままならぬながらもままならぬままに年老いて来たという事実に対して、私は谷川俊太郎と佐野洋子という二人の作家(…にしては詩人と絵本作家だけど)に特別の愛着を持っている。

 それは多分、気難しい顔をしてしかめっ面をして生き続けるよりも、もうひとつ大らかに考えて何かを認めていこうという生き方に私が憧れを持つからなのかもしれない。未だ、子供も持たず家族もなく自分の夢を叶えることも中途であり現在の仕事が中途半端にであっても日常のものとして過ぎていく私にとって、数々の焦燥感を和らげてくれるものと云っても過言ではないと思う。実のところは、子供を持つ必要もなく、家族を持つ必要もなく、夢を叶える必要もなく、中途半端でありつつも現在の停職を定年まで続け、そして、生き長らえたように生き長らえてしまう人生であっても一向に構わないのかもしれない。そう考えるのは人それぞれであって私も人であり、この日本社会で生きている以上、そういう楽な生き方をするのもひとつの方法かもしれない。だが、叶えたい夢があるならば、叶えられるように日常を形作っていくのが普通であって、それが野望であろうと野心であろうと無謀であろうと慢心であろうと、それこそが私自身を支え続けた夢であって、それだからこそ此処まで生きて来た自分があるとするならば、これからも続けて行くのに妨げるものなぞひとつもない。それが、大きな現実性のために断念しなくてはいけない夢ならば断念すべきであろうが、現実味のある夢であり、現実味のある計画の元でなければ叶えられないであろう私自身の夢ならば、今のままの自分がいちばん良い状態なのだと私は確信するのである。

 実はそんなことは、佐野洋子とは正反対のところにあるのかもしれない。実際のところ、女として母として生きてきた佐野洋子にとって、結局のところ、男女というものはそういう違いがあって、その違いは可哀相というものではなくて、違いだからこそ憧れるなり補うなり尊敬するなり認めるなりして、違いというものを感じ続けて生きていくのではないだろうか、と男の私は思う。
 それが、佐野洋子における谷川俊太郎のような感想であれば良いと思うのは、私にとって司馬遼太郎と並ぶ価値ある老人の姿が谷川俊太郎にはあるからである。

update: 1998/2/25
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