書評日記 第426冊
デットアイ・ディック カート・ヴォネガット
早川文庫 ISBNISBN4-15-011219-3

 ラストシーンはおまけに過ぎなくて、実は作者の云いたいことは小説の3分の2あたりで言い切ってしまっている。あとは後口上が残るだけなのだ。
 最早、カート・ヴォネガットの小説も彼以外にある試みを必要としなくなっているのかもしれない。一人語り形式の告白型の文章にはヴォネガットの初期作品にある挑戦的な明るさはない。だが、ひとつの山を乗り越えてしまえば残る道のりは平坦な下り続きであって、それこそが誰もがひとつは持つ人生という小説の晩秋と云えるのならば、あえて再び山を見上げる必要はないのかもしれない。
 つまりはカート・ヴォネガットという作家は其処で終わりになる。残るのは名もないひとりのカート・ヴォネガットという人に過ぎない。

 とある作家がどんな波瀾の人生を送ろうとも私には一向に関係ない。時間的にも空間的にも交じり合わない数多くの作家達に私は直接的な関与を求めることはしない。また、できない。それでも尚、ひとりの作家から生まれてきた複数の作品を読むことは、作品を生み出した作家としてではなくて、作品を生み出す作家として向き合うことを好むからなのかもしれない。
 だからこそ、私はひとりの作家の作品を連続して読むことをしない。消化不良になるのもそうであるし、人生の一時期に集中してのめり込んで理解できるほど人の生み出すものは簡単ではない。また、読んでいる途中に理解できるほど人の想像力は簡素なものではない。論じられるほどにうすっぺらになってしまう作家論よりも、10年かけても未だ気になる作家という存在は、私にとっての本当の意味での血肉であると思う。そういうことがしたいがために、他の作家の作品を読む。また、色々な繋がりを求めようとする。そして、再び、ひとりの作家に戻って来るのが一番正しい本との付き合い方だと私は思う。

 作品には必ずエピローグがある。未完であっても突如と途切れてしまう小説であっても本をめくれば最後の頁がある。だから、それを気にしながら読む時、読者はエピローグに浸っている。解説にもあるが、書き手の方も「また今度」と云いながらラストシーンを目指す。最後の幕が閉まれば客は散る。書き手も家路と付く。残るのは作品という幻想だけにすぎない。
 そんなひとつの物語を人生にあてはめてしまえば、ピークを過ぎた薄暮の時間はエピローグに過ぎない。それがどんなに長くあろうともエピローグは幕を目指すだけであり、再びピークを目指そうとはしない。

 青春だの若さだの仕事だの地位だの金だのと、人はピークを求める。それが未来にあれば幸いであり、過去にあれば傾いた日があるだけだということだろう。
 『赤毛のアン』は一冊目がピークなのだけれど、後は不思議と平凡な日常があるに過ぎない。そんな日常にある幸せこそが本当のピークであると知るのは、アンとギルバートの再開という形を知っている人だけなのだろうか。

update: 1998/3/2
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