書評日記 第430冊
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壊れものとしての人間
大江健三郎
講談社文芸文庫 ISBNISBN4-06-196210-8
裏表紙より。
『…作家大江健三郎の精神の原点と、創造世界の内奥を小説に近い告白的な語りのうちに綴った長篇評論。』
小説家が何かを語ろうとする時、それが小説であれば小説家となり、別の形式になれば別ものとなる。狭義としての小説、起承転結のある時間軸上に物語られる小説群から脱することを大江健三郎は目指し、そして、それを為し得ることが出来たと私は思う。
解説にある通り、確かに『壊れもの…』は難解だと思う。ただ、それは大江健三郎が他人との融和よりも孤立化するところに独自性を保ち、彼自身の自己実現性がそういう日常でしか為し得ないものだったのだから、彼の言葉が巷の言葉と迎合せずに「難解である」と言われても仕方が無いところがある。だが、結局のところは、彼は彼独自の言葉でしか自分の想うところのものを表現できなかった、または、表現しようとする努力を諦めてしまった、または、それ以外の言葉では表現し得なかった、という自らを非凡に保つがゆえの言語障害が露呈しているのだと私は思う。
つまりは、分裂症ぎみの人がそうであるように、自分を表現する言葉は自分以外には表現できない、同時に、理解し得ない、という自己肥大の現象が大江健三郎にはある。
もちろん、それが日常生活を為すことができないほどの障害にはならなかったのだし、また、究極のともいえる自己の独自な表現を自己のために起こし続けたために、何ものかを何ものかのままに通づることが出来るようになったと言っていい。
多分、言語爆発とも云える、世界にある言葉が圧倒的に少ないと悲嘆の日々を大江健三郎は送ったのではないだろうか。小説が認められる認められないに関わらず、何よりも、己が認めるほどの意志表現の完璧さを持った文章を創り出すことに彼は専念し続けて来たと言ってよい。
だから、或る意味では、彼の他の小説も『壊れもの…』の評論も対して違いはない。それは、巷の評論家が小説に対して思うのとは全く正反対のところにある「意識」だと私は思う。
何故か、何かに喩えなければ正確に表わすことができないのは、直接的な評論や評価を下したところでそれが言葉だけの問題に終始するだけであって、決して聞き手の意思を変えるものではない、という話し手との離反性――「独立性」と言えば聞こえは良いが――に私が寂しさを感じるからだと思う。だからこそ、評論とは違ったところに人間性を見出し、そこを好むのかもしれず、その範囲内に大江健三郎という人間がはまり込んでいるに過ぎないのだろう。
実は『エロスの涙』・『精神疾患とパーソナリティ』を読んでいるので上のようなことを考えるのかもしれない。
ただ、自分ながら配本の妙技に驚くしかない。
update: 1998/6/1
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