書評日記 第431冊
あなたの世間体 内田春菊
集英社 ISBNISBN4-08-862338-X

 基本に立ち返ることにしよう。
 
 内田春菊の漫画は久しぶりに手に取った。彼女の最新刊は文庫本で出ている小説の方なのだろうが、今の私には手に取ることができない。『ファザー・ファッカー』の続編を読むことができるのは何時のことだろうか。
 この漫画であっても手に取るのは躊躇われた。彼女の一連の作品を知っていれば分かると思うが、彼女の作品は「男」に対して厳しい。いや、彼女の作品では歴史の中で培われた「男」が存在しない。
 むろん、内田春菊という人の性別が女であり、逆に言えば男ではなく、同時に、内田春菊という人が漫画家として人として感情的に独立しているから、こういう作品が描けるのかもしれない。
 とある意味では、女から男への媚び、男から女への媚びが、最近の本の傾向になっている。単純消費者としての女の存在意義から、生産者としての少数の女性があらわれ、それと同時に、消費者としての男性と、やはり社会を形作るところの男性が以前と変わらずに存在し、生き延びるためなり、社会発展なりの意義を失いつつある個人主義社会の中で、誰しもがメス化するところで、アルファ・オスのみを望む社会になったということかもしれない。
 つまり、多数すぎる個体が集団として生命力の強さを望み始めた、ということだろう。
 
 そんなことを考えながら、渋谷の女女らしい服装をしている女性達を目にし、私は、内田春菊の横滑りを感じざるを得ない。また、同時に、多様性としての内田春菊の作品性を強く感じる。
 というのも、私の立場からすれば、彼女の作品性を私個人の人生の中に取り入れる必要はない。それが彼女が女であり、女が造る作品は女にしか享受し得ない消費的な価値を持ち合わせていることの証明であるのかもしれない。
 ともすれば、あからさまにセックスを前面に押し出し、反対に「恋愛」なり「純愛」なり「セックスレス」なり「不倫」なりを持ち出してしまう偽善の無さ、屈託のなさが、あまりにも私には強く響いてしまうのだと思う。そして、「純愛」や「不倫」という形でセックスの中に男女という性の組みを組み入れざる得ない大衆性や、セックスを他の快楽のひとつとして〈あえて〉組み込んだり、または、精神医学的に分析してみたりせざるを得ない特殊性=男性性を主張してやまない男性社会、そして、それに添うことを再び求め始めた現代女性に対して(それがマスコミの姿だとしても私にはそう見える、ということに過ぎない)の同意よりも、私は内田春菊のアプローチの方が素直に受け取ることができる。
 
 ひどく回りくどくなってしまったが、男の立場を再び回顧し、所詮、男でしかない自分に気付いた時、それを強味にすることを決意した時、私の立場から見える世間は、上のように捉え直すことができる、ということだろう
 上野千鶴子(へ)のアプローチも含めて。

update: 1998/6/14
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