書評日記 第433冊
とりあえず10巻までの感想。
『HEN』と『月下の棋士』と双璧を張る漫画だと思う。
むろん、この二つの作品が私にとって、衝撃的であるからこそ、江川達也の描く漫画のリアリティが私には強く響いてくる。
『クラダルマ』が連載されていた頃、私は恋に飢えていた。
自分が一人ぼっちであることを、インターネットの中で明白に気づかされた時、私の目の前にある未来は瓦解した。
当然、これは、かつての私の人生の目標が漫画家になることであったことに対し、怠惰からの挫折か、それとも、たわいない凡人ゆえの空転なのか、結局のところ大学も中退せず、そのままひとりのサラリーマンとして社会人になってしまったことの不安だと云える。
そして、未だ空白な未来を自分の前に置くことのなかった、かつ、空白である先行きを不安に想い恐れ、その恐怖から逃げ出すために、死することによって全く無かったことになってしまう私という存在に耐えられなり、私は、何か確かなものを自分の外に求めたのであった。
そして、自分に関わる他者を求めたのだが、かつて、私は他者を求めることはなく、自分の世界にあるのは自分ひとりであることに満足し、それゆえに、全世界が私を必要とするであることを妄想し、また、そうなることを夢見て、なんらかの夢を抱きつづけていたのだが、世間はそれほど私を気遣ってくれなかった、という当然の結果に落ち着いたということに過ぎない。
果たして、江川達也が『東京大学物語』に何を託そうとしたのか、と問うことは野暮である。ただ、私個人が強烈に感じることは、彼の描く「自由」は、彼自身の身のうちから出てくる本物である、ということである。
それは、数々の文学性や漫画にある娯楽性や人物描写や現実への歩み寄り、また、非現実への逃避、といった批評的な観点ではなくて、江川達也という人間が、みずからの頭で考えた夢が其処に現実になっているということだろう。
つまり、『東京大学物語』という漫画を現実化したところに、江川達也の願望と夢とが精算されているということだと思う。
そして、この作品に出てくる水野遙という女性が、容姿的に男性の願望の的であるというカモフラージュの中で、実際のところは、誰もが持っているいるであろう夢を持っているがゆえの本当の「愛らしさ」――非常に女性的な形容詞であるだが――を持ち合わせているということだろう。
それが、私がこの漫画を好む理由であり、江川達也という漫画家を好む理由であり、この作品にリアリティを感じる理由(ゆえ)なのである。
…と、その証拠に、水野遙は、江川達也の奥さんに似ている。
update: 1998/6/23
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