書評日記 第434冊
美しい星 三島由紀夫
新潮文庫 ISBNISBN4-10-105013-9

 耽美を極めようとすれば、三島由紀夫の文章になる。この言葉の中にある「美」は、機能美でもあり、卓越した者が持つ才能をも意味する。余分が削ぎ落とされ、精練された彼の文体は、彼の生き方と同様な「美」を持ち始める。軟弱さには「美」が含まれない思想は、強さを持って「美」として機能させる。それが三島由紀夫の強く求めた思想であると私は思う。
 
 解説にもあるように『憂国』と同じ時期に描かれ、世界を睥睨するための手法としてSFを用いている。大江健三郎が『治療塔』で用いたものと同じものが其処にはある。手法としてのSFであり、手段としてのSFではないものがある。
 だが、手法を広く求めることによって、人の思考は広がる。狭い範疇で考えられたものは閉塞した空間の中で十分な辻褄を持っているが、その構造の外から眺めたとき、単なる無知蒙昧ゆえの堂々巡りを繰り返しているようみ見えるときがある。
 ただし、時代性が其処に厳然としてあるとき、その時代性から個人が逃れることは不可能に近い。マスコミュニケーションが発達しつつあった当時において、マスコミニケーションを個人に対して何らかの価値のあるものとして捉え囚われることは、決して不自然なことではなかっただろう。それが、現在ではマスコミとなり、決して絶対的な価値を持たないが、広く囚われ続けるであろうTVの番組が昼夜問わず流されることによって、大衆という幻想が、幻想の外へと追いやられる。と、同時に、見えない空想の大衆が前提となり、それへの反発や批判を以って、大衆へと融合していこうとする。
 そんな現代社会の中で、『美しい星』が持つテーマは、堂々巡りのお遊びに見える。かつてより水爆の恐怖が遠くになり、そして、水爆の恐怖が日常となってしまう不感症となったとき、車の排気ガスも、オゾン層の破壊も、飢餓も、民族紛争も、いじめも、不妊症も、離婚問題も、すべてが平等に語られるように平坦化されてしまい、所詮、自分が生きている間にある些細な出来事が、一番の関心事となり、また、それを一番の関心事として扱うことが大衆的に白眼視されなくなった今、『美しい星』は、小説の中にあると或るおはなしでしか扱われなくなってしまった。
 
 それらはひょっとすると、私個人の諦めの念であり、諦めの歳であるからなのかもしれない。『美しい星』という小説の中にあるのが、三島由紀夫の描く「美」の追求であって、決して社会批判であるように見なくなるのは、安楽椅子のままに安楽死をしようとする、社会への無関心さ、己の周りだけを現実とする想像力の欠如を意味するのかもしれない。
 ただ、かつての自分が考えた諸処の社会問題が、何かと大上段であったと思えるのはなぜか? そうは急ぎでは動かない現実が目の前に居座っていることに絶望し諦め、そういうものだという慣れに安住し始めたのか。
 
 ただ、ひとつ云えるのは、諸処の批評(家)がどうあれ、私は三島由紀夫の小説を読み、この感想を書き残しているという事実がある。
 それは、多分、「サムライ」という言葉の響きへの憧憬が彼と等しいのではないか、等しくありたい、という想いと、「三島由紀夫」という名声への憧憬が私にあるからではないだろうか。

update: 1998/6/24
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