書評日記 第437冊
他人(ひと)が〈原爆〉にどのように対処しているか私にはよくわからない。だが、かつて、中学生・高校生時代を広島で過ごした私にとって、〈原爆〉という言葉は、とても日常的なものになっている。少なくとも、大江健三郎の捉える『ヒロシマ・ノート』や、この演劇・『父と暮らす』よりも、日常的なものになっていると自負している。
井上ひさしの創る世界は、破綻を来たさない。体裁良くまとまった演劇・小説の世界は、井上ひさしという作者の中で、ひとつのまとまりとなり、ひとつの結論を導き出している。そして、聴衆・読者に彼の創る作品の中に溺れることを可能にする。
ただ、私には、この完璧とも思える構成された世界に溺れきることができない。破綻がないことこそが、破綻に思える。まとまりきった作品が、まとまっていないように見えて仕方が無い。
これは、筒井康隆の作品が、常に未完成であり、常に実験的であろうとするがゆえに、止む無く破綻してしまう部分があるのに対して、井上ひさしの作品が、破綻がないゆえに、彼の実力の一歩手前で止めてしまう勢いの無さと、安全性と、無難なまとまりによって、私は井上ひさしの創る作品に常に不満を称えてしまう。
当然、両極端の二人の作風が、読者である私にとって、相容れるものではない。ひとりの読者でしかない私にとっては、井上ひさしという作家と筒井康隆という作家が、入れ子になって私の感想に相互影響を及ぼしてくる。そういう作家が居る、ということ。認める作家を私は持っていることだと思う。
原爆の支配下の中で娘だけが生き残る。父親は娘の幸せを願う。だが、幻想の産物である父親の姿は、娘の願望に過ぎない。娘自身は、生き延びたことによって、みずからの幸せを形作ることが可能になる。と、同時に、生き延びてしまったことによって、死者である父親や友人を不幸に陥れてしまうことを嘆く。そのふたつの葛藤は、ひとりの娘の心の中に同居する。それが葛藤になってしまうのは、原因が別のところにあるからである。それは何処か?
広島・長崎の原爆、東京大空襲、神戸大震災。どれほどの不幸が何時、自分の身に起こるか分からない。父親を見捨てて生き延びてしまった自分をどのように対処させてよいのか分からない。幸せな毎日を過ごして良いのかわからない。恋をしてよいのかわからない。生きてよいのかわからない。そういう、葛藤の中であっても、ひとは、ひとりひとりの為るように為るべき道を進み始める。
死ぬことぁない。死ぬまでもない。ひとを押し退ける勇気がなくても、死ぬ勇気はなくても構わない。私の目の前にあるのが唯一の現実である。死者も含めて現実である。死者を想うのも現実であり、幻想に悩むのも現実である。そんな、ひとそれぞれ違う現実の中では、正解なんてありゃあしない。悩んでいても時間が過ぎる。何かをしなくては生きては行けない。後悔しなければいいのだと思う。それが、唯一の解答ではないだろうか。
update: 1998/7/6
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