書評日記 第436冊
無能の人・日の戯れ つげ義春
新潮文庫 ISBNISBN4-10-132813-7

 竹中直人監督の『無能の人』を観たのは、私が大学の頃で、夢にやぶれた頃である。その当時より、映画・『無能の人』は話題作であり、つげ義春の描く漫画・『無能の人』も評価は高かった。だが、私には、原作である漫画・『無能の人』を読む勇気が無かった。私はそのまま貧しさに耽溺できるほど、私の精神も生活も豊かではなかったからだ。
 当時の友人が、それを完全に知り得ていたかどうかはわからない。
 すくなくとも、私が云えるのは、つげ義春の作品を読むことができる程度には、私の夢は復活(または完璧な敗残)を為したのであろう。
 
 文芸作品、文学的作品、歴史的な作品、話題になる作品、名を残す作品、名を上げる作品、突破口になる作品、薄暮である作品、朽ちるための作品、敗残であることに耐えるための作品…さまざまな作品があるのだが、私が映画・『無能の人』を観たときに思ったものは、漫画を描くこと・漫画家を目指す夢を捨て去り、大学の授業に淡々と出ることを決め、大学院に行くのが良いものか、留年を繰り返してしまう怠惰な性格や生活がどのように立ち直るものなのか、父親の定年が数年先にと迫り、両親と私との先行きの関係を妄想し、さまざまな一般的な日常生活、特に一般的な大学生の生活とは程遠い自分の現実を垣間見て、どのようにも落ちぶれることができない、どのようにも成ることができない自分を省みて、ただただ不安な毎日を送り続けていることだった。
 みずからの才能を疑う前に、私の敵は「怠惰」であった。結局のところ、つぶしの利かない原子力学科という範疇に自分を収めたのは、背水の陣を敷くことによってしか突破できない己の優柔不断さにはっきりと気付いていたからであろう。ただし、今思えば、そんな無謀さを余所に、私は無謀にも大学に出るのを止めて、ただただ、漫画(家)を夢見ていたに過ぎないのだろう。
 だが、今現在の私は、決して貧困に喘いでいるわけではない。満足しているわけではないが、満足が可能であるほどの日常を送っている。それが、サラリーマンという忌み嫌うべきものであったとしても、その一員である私は、その職業から生活的な安定を得ている。精神安定も得ている。
 雇用人というほど、事務的な毎日ではない。だが、『無能の人』を読んで感じるのは、清貧の美的感覚とは随分かけ離れたところに居る自分の姿を恥じ入る感覚だろう。
 もちろん、それらの感覚――作品を読むことによって得られる感想、現実への比較、耽溺、充足感、不満、希望などなど――は、所詮、現実とは離れた位置に存在する作品の中にある虚無なのであるが。分かっていても、そうしたくなるのは、なぜだろうか。
 
 自分に才能があると想い、信じる。また、無能であることを想い、信じる。社会的に掃き捨てられた場所に安住し、その悲壮さに溺れる。悲嘆に暮れる。涙を流さずに嘆く。
 非常に極端な話、アフリカの飢餓と己の生活を比較して、己の生活の豊かさを確認する。まだ、未だマシであるところの私の生活に安住しようと努力を重ねる。だが、何かが違うと思い始める。
 それが世界に不在である自分の姿を確認し、なんとか復活しようとする試みなのか、それとも、不在に気付かぬ世界の画一的な思考を嘲笑おうと努力するのか、それとも、自分とは全く違う次元で起こっている出来事として諦めるしかないのか。
 
 吉本隆明のリップサービスはリップサービスに見える。

update: 1998/6/29
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