タイムクエイク カート・ヴォネガット
早川書房 ISBNISBN4-15-208159-7
カート・ヴォネガットの最後の小説。エッセーともSFともつかないストーリーは、まさしく、小説家である彼の最後の小説を彷彿させてくれる。ヴォネガット自身が語っている通り、『タイムクエイク』は、ヴォネガットのすべての小説の最終章に値すると思われる。
私はヘミングウェイがなぜピストルで自殺を遂げたのか、詳しくを知らない。だが、確実に言えるのは、ヴォネガットは、自殺をしないだろう。非小説家である、「小説」という舞台を下りた豊かな老後を送ると思う。…とは言え、ヴォネガットは、今年で77歳なのだが。
「人生は回り舞台」というシェークスピアの台詞を私が覚えたのは、石森章太郎著『サイボーグ009』であった。それ以来、私は「舞台」に居ることを意識し続けてきた。そう、「きた」として、過去形になりつつあるのは、私が非常に個人的な幸せを掴みつつあり、そして、非常に個人的な苦しみを得たからであろう。そんな、非常に個人的なところとは全く反対のところに、小説という舞台はあり、また、ヴォネガットは小説という舞台で演じる一登場人物であり、また、キルゴア・トラウトを慕い、また、キルゴア・トラウトと同一化し、ヘミングウェイを慕い、老人になり、アメリカ文学を培い、糞と射精と産道を好み、それでもなお、どこか上品なのは、「品がある」からなのか?
小説が現実を模倣しなくなって久しい。また、現実を模倣しない小説が蔓延り始めて久しい。だが、現実を模倣せずにはいられない私たちの頭脳回路は、古いものを切り捨てるしかない段階に至っている。…つまり、新旧交代の時代なのだ。
小津安次郎や黒沢明や伊丹十三や大江健三郎や安部公房や筒井康隆や、その他もろもろの人が消え去ってしまった後に残るものは、一体、何なのだろうか。たった、数冊の小説や映画・全集なのだろうか。それ以上は望めないのだろうか、と時として不安になることがある。
もちろん、新しいものはどんどん作られる。創られ続けること自体が、新しいことの本質であるかのように、大量生産される。流行を形作っていく。または、流行を求めずに生きていこうとする。どちらにしろ、旧いものを切り捨てようとする。または、古いものを組み入れようとする。古いものを混ぜ合わせようとする。
「休耕期」ではないかと思う。ひとつ、立ち止まって、長々と熟成させてみるのもひとつの方法ではないだろうか。
それが、カート・ヴォネガットの最後の小説の意味するとこだと思う。