書評日記 第445冊
母の恋文 谷川俊太郎編
新潮文庫 ISBNISBN4-10-126621-2

 谷川俊太郎の両親である谷川徹三と長田多喜子の往復書簡…というより恋文をまとめたものである。文庫本の裏側にある解説では、『高名な哲学者だった父・谷川徹三―』となっているが、私にとっては、高名ではない。これは谷川俊太郎自身があとがきとして書いていることなのだが、二人の恋文は至って長田多喜子の側からの想いを語っている。
 決してストーリーがあるわけではないのだが、末に添えられている30年後の手紙を読めば、その間の苦悩は耐えるべきものではなかった、のかもしれない。または、小説的に言えば、ハッピーエンドであったので、それで好しとするのか。それとも「止し」にせざるを得ないのか。
 
 …時間的に随分間が空いてしまったが、続きを書こう…
 
 夫婦なんてそんなものだ、浮気は男の甲斐性だ、耐えるのが女の仕事なのだ、という形式的な科白は誰もが聞き飽きはじめている。だが、ふと、オスとい性を持っている私には、谷川徹三の行動(実際には、家庭の外に女を持つことは『母の恋文』では語られていないのだが)を無碍に卑下することができない。
 だが、そうありたくはない、と思うし、そうあるのはおかしいと思う。まことに個人的な人生であるのだし、真剣に考えるには時代も違うだろうし、他人という隔たりが彼我の差として確実にある。そして、私には、そうするほどの勇気(?)があるかさだかではない。
 だから、ともすれば、流されてしまわないように自分の場所を配置させるのも賢い生き方なのではないか、と思う。つまり、妙に引込み思案な、孤独な状態が、それを固持しようという仕種なのだろう。
 あいにく、谷川徹三自身の言う「若い頃の放蕩」が、彼の哲学者としての人生ないし栄誉(?)に如何なる相乗作用を引き起こしたのか私は知らない。また、「相乗作用」を起こしたのではないか、とふと考えても見てしまうのは、結局のところ、彼と同性であること故なのかもしれない。
 
 そんなことをつれづれとなく考えながら男性である私は『母の恋文』を読み終えた。

update: 1998/10/07
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