華氏451度 レイ・ブラッドベリ
早川文庫 ISBNISBN4-15-4001060-3
「タイトルの『華氏451度』は紙の発火点である」という謳い文句は知っていたのだが、実際に読むのは初めて。ブラッドベリのSFを読むのは、今更、というほどに私には気恥ずかしい。それは、ブラッドベリ、という著者から連想するのは、ひたすら「少年」という単語だからだ。「少女」という単語を再び手元に置こうと澁澤龍彦著『少女コレクション序説』を再読しているのだが、「少年」という言葉は徐々に私から遠くなり始めているからだろう。
そんな感慨は余所にしても、『華氏―』は傑作だと思う。
過去の名画・名作を求めて、ひたすらクラシックを聴く毎日を過ごすのか、それとも、産業革命以後にある科学を中心とした世界に空想の根を持つのか、バロックから流線形へ、貴族栄華から廃退と狗肉の象徴へ、特殊化を極めるところから一般化と分衆と遠い危機思想、そして、緊張感の無い世紀末論、うわすべりとパロディに満ちた余所余所しい現実、めまぐるしい流行と停滞しはじめる最前線、かつ、最前線こそ胡座を掻くこと。
あらゆるところに人は好みを分散させてきているのだが、カート・ヴォネガットが『タイムクエイク』で最後を飾ろうとしたり、村上龍や村上春樹に週刊誌が社会思想を求めるようになったり、ともすれば、時代は昔より随分進んできたように感じるけれども、私個人としては一時期に立ち止まるしかない、安堵を求めようとしている気がする。
そして、流行と時代遅れという言葉自体が、まさしく、「時代後れ」になってしまっていることに気付き、そんなところに最前線、または、ススんだ世の中の匂いを嗅ぎ取ることができると私には思えてくる。
つまり、錯綜するジャーゴンが、意味の分からぬまま伝わる意思というものに寄って生きてしまうことへの不安と日々が、私には感じられるのである。
どうもややこしい書き方になってしまうが、かつての時期に私は『華氏451度』を読まなかったという事実がある。そういう過去があり、今、改めて(?)読み終えたときに受ける感銘というものが、本当にかの時期に受けるものであったのか、という不安が私にはある。そして、それは、かつての時期でしか得られなかった、とある思春期とか青春期とか言われる、または、言われ続けている、と或る場所ではなかったか、と私は後悔しているのである。
シェークスピアの戯曲や、モーパッサンや、トーマス・マンの作品と同じ場所に置いて良いものかと悩むわけである。
月並みながら、同じ場所に置けない理由は、『華氏451度』のほうが身近に置きたい、という感情を持たせるからなのだろう。