少女コレクション序説 澁澤龍彦
中公文庫 ISBNISBN4-12-201200-7
再読。『少女コレクション序説』を借りたのは大学2年の頃であり、10年程まえになる。その頃の私は未だ、澁澤龍彦も稲垣足穂も知らなかった。夢野久作や谷崎潤一郎も知らなかった。ちらほらと読み耽る筒井康隆や安部公房からは、そのような趣味は程遠かったのである。
能天気な生活から一変して、ややこしい複雑怪奇に想いを寄せ始めた発端は、どこであったのかよくわからないが、希望大学に落ち、高校を卒業したその日から、将来への不安を紛らわすためと、国語の成績を上げるために、日々の習慣の中に「読書」を取り入れたのは確かなことである。
それから10年経ってみると、さほどに本読みを中心としない生活を想像していたにも関わらず、読書の習慣は私の日常生活の一部を通り越して中心に据えられるものになっている。
思考をしなければ不安を掻き立てられ、遺産とも遺志ともつかないような読書の軌跡を残そうとするかのように、多大な読書量をこなす私自身の姿を見れば、決して、一般的では満足し得ない、同時に、一般的には暮らせない、不幸を背負ってしまったような気がしてならない。
それは、会社員として暮らす中で、さほど読書を生活の中心に据えるためには「ひま」の多い職業であることに私は不満を唱え、かといって、連綿と筆を走らせるには、しつこさの足りない我が身を振り返ってしまうためである。
澁澤龍彦のように、荒俣宏のように、とあれこれと考えてみる。
あきらかに暗黒のカリスマでありつつも、日の当たる場所に出てしまっても、さほど違和感を感じないほどには、分衆化してしまった一般大衆の中で、サブカルチャーという名目を付けては、それぞれの偏りを特殊化と劣等感の狭間を浮遊していくことを人々は覚え始めているような気がする。これは、「―学」としてそれぞれのカテゴリを設けては、アイデンティティを保ち、世俗に依らざるを得ないか弱い自己に気付かずにゆく、充分に有効な方法ではないか、と私は思い始めている。だからこそ、私は、「離反する」ところに価値を見つけ出し、それが孤独であれ孤高であれ、集団の場所には居ない自分に対してジレンマを起こしつつもあやういバランスを取る方法を心得ているわけである。これが、私が自殺をしない理由であろう。
社会的に認められるべき価値と、己が認めるべき価値と、仲間が集うためにある価値とを見比べてみれば、流動的ではない己と、流動的でしか有り得ない社会を比較して、みずからが信じるところを信じられるほどに、生きていくことができるのが一番の幸福であり、望みではないか、と再確認するわけである。
何かを為せないほどに人生は短くはないのだが、ぼんやりと何かを為そうかと想うほどには人生は長くはないのである。
『少女コレクション序説』というタイトルに魅了され、その表紙にある四谷シモンの人形に魅了されるのは、誰もであるのか? その偏愛に耐えられるひとだけが、読むべき本といえる。