書評日記 第450冊
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グイン・サーガ外伝15
栗本薫
早川文庫 ISBNISBN4-15-0306040-4
栗本薫のグイン・サーガを読み始めたのは中学生の頃だと思う。すでに、20巻以上出ていたグイン・サーガに手を出すのは結構勇気の要ることだったと思う。
同じ頃に読んでいたのは平井和正の『幻魔大戦』であった。この作品は平井和正自身が語っているように、やばい本、であることは確かであった。
ただ、グイン・サーガにせよ、幻魔大戦にせよ、ファンタジーやSFが魅了するものは、現実逃避と超現実への介入だと思う。そして、目の前の唯一である現実に対して失望しない原動力が潜んでいると思う。もっとも、逃避として書かれるものもあるだろうし、非なる現実として描かれるものもあると思う。だが、指輪物語やナルニア物語がそうであるように、グイン・サーガや、幻魔大戦が、私にとって、そうであった、ということだと思う。
グイン・サーガ本編の30巻あたりに書かれている栗本薫のあとがきの雰囲気と、このグイン・サーガ外伝のそれとは、かなり雰囲気が違う。昔の本編のほうで書かれている作者の熱情と浮遊感は外伝のあとがきには少ない。これは、100巻を目指して書いているグイン・サーガの半分を越したという現実が、とある夢から作者を目醒めさせてしったことを示しているのではないだろうか。
漫画の描き方として言われて来たことに、「キャラクターが立つ」という謳い文句がある。これは、KだのQだので語られる純文学(?)の嗜好とは正反対のところにある、登場人物への感情移入を諭すための手法と言える。ただし、かつて物語であって、作者・主人公・読者が一体となっていた冒険譚とは違って、記号化され、作者・主人公・読者がばらばらになって存在することが可能になった――「慣れ」なのかもしれないが――現代の小説から鑑みれば、「キャラクターが立つ」という文句は、ひとつの手法に成り下がってしまう。
いわば、ファンタジーや漫画で至上主義とも言えた「読者から作品への感情移入」無しに、現在の小説は成り立つ。それと、同時に、ひとつの手法として、そういう小説も読者には欲せられていることを示しているのである。
神懸かり、という言葉を頻繁に使った栗本薫は、今、その言葉を控えはじめているような気がする。また、神懸かり状態にある自分を対象化させて看る余裕を持ってきたような気がする。
むろん、これは20年間という彼女の作家生活――もっと長いのかもしれないが、グイン・サーガに面している期間は少なくともそれだけある――が、決して作品だけではない、人間としての彼女の連続した生活を含むことを示しているのだろうし、それを意識した上で、サーガを書き綴ることを使命にしている、という人生設計が彼女にある、ということなのだ。
私自身が、30歳になってまでも、この作品を対象化せずに読むことができるか否か、という問題。そして、かつての私が「感情移入」を唯一の手法として数々の作品に面していたということ、また、それからの変移が、グイン・サーガにはある。
私にとっては、『M/Tの森のフシギの物語』と同列な、思春期(?)の小説だと思う。
update: 1998/10/14
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