書評日記 第451冊
ストリート・オブ・クロコダイル ブルーノ・シュルツ

 ブルーノ・シュルツ作、サイモン・マクガーニ演出、テアトル・ド・コンプリシテ主演、『ストリート・オブ・クロコダイル』、場所は世田谷パブリックシアター。
 
 さしたるストーリーはないのだが、私の覚え書きのために敢えて言うならば、戦時下のポルトガル(?)にあると或る古本屋。そこにある一冊の本から店主・ヨゼフの子供時代から青年期の想い出を想起していく物語である。本にまつわる『夏の十夜』とか『ニモ』とか『プロスペローの本』だとか、夜更けに思い出す過去の想い出と現実の対比、ということになると思う。
 ただし、この演劇の中で求められているものは、そのような感傷ではなく、ただ、その時代にマッチした幻想とフェチシズムと流行と狂気とを折り合わせた劇中劇というものではないだろうか。
 
 かつての演劇が幕や暗転で時間を区切られるのに対して、『ストリート―』は、幕も暗転も一切無い。だが、『ストリート―』には、幕も場も複数用意してある。これは、劇中の区切り目は常にどたばたと前後をつなぐ演出になっているために、常ならば幕間であるものは、劇の外の現実の時間となって表されるものであるのに対して、場面と場面の間を舞台の上に存在させる、すべてが劇の中にある、という主張ではないかと思う。つまり、これが「劇中劇」という言葉を使いたくなるゆえんである。
 道具立てもさほど変化しない。椅子と学校で使う天板の開く机、大きな布や備え付けの本棚、外に続くドアも窓もあるのだが、ひとつの空間の中で収まってしまう「夢」の世界には、それ以上のものを必要としない充分さ其処には詰まっている。となれば、前衛を形作ってしまう難解さを表に出すこともできるのだが、『ストリート―』にあるのは、主演であるコンプリシテを含み10数人の演技者が常に出ずっぱりで1時間半を過ごす、劇自体がひとつの本となって目の前にあるような、濃密さ・綿密さであると思う。
 
 『魔王』の引用は、私にはよくわからなかったが、前半の父子の想い出の場面、ヨゼフの教師時代の想い出が楽しい場面であるのに対して、父の死からすべてが暗転してしまった彼自身の人生を示しているのではないか。それが付け加えられた皮肉ではないのであれば、父の死によって、子・ヨゼフは父離れを予期せずに実行されることになり、また、子という保護者の居る立場から、時代から何かを奪い取るまでの、「守る」ことへの貪欲な感情を表に出すことを選択することを暗示しているのではないだろうか。…むろん、私自身の状況とその解釈を含めて――当然、私は『ストリート―』を観た観客であるのだから――なのであるが。
 
 さて、ヨゼフは、さまざまな想い出を眠りに付くことで終末を終えさせる。外に響く軍靴を余所に、そうでしか安住できない眠りの中に、現実と幻想の想い出の中に、眠りをむさぼるのである。
 軍靴は直接的な戦争を表しているのではなく、劇場の外の現実を示している。眠りに就くということは、演劇という夢の外へと否応なしに脱出させられることを示している。
 『ストリート―』が各国の喝采を浴びていることに対して反意を唱える気は毛頭ない。喝采の中身はそれぞれ個人的な事情の上にあるものなのだろう。
 そんな不思議な感慨を私は得た。

update: 1998/10/18
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