書評日記 第456冊
音楽 三島由紀夫
新潮文庫 ISBNISBN4-10-105017-1

 文体練習を兼ねてしばらくの間、書評日記を書評らしく書いてみることにしよう。
 
 「音楽」を求める不感症の麗子を診る主治医・汐見精神科医の手記の形態をとった小説である。裏のあらすじに『少女期の兄との近親相姦――」との文字があるが、あたら近親相姦を重視する必要はなく、解説で澁澤龍彦が語る通り「よく出来たエンターテイメント小説」が妥当である。
 女のオルガスムスを「音楽」と表現するのは秀逸である、と澁澤龍彦は語るのであるが、今となっては、当然とも言える事態になっている。レゲエのリズムの中でセックスを行おうとする『安穏族』や、ロックを掛けることによって雰囲気を盛り上げようとしたり、視覚的な効果、神聖な行為、遊び、淫猥、というよりも、ひとつの官能的な交感作用としてセックスを求めようとするのは、性行為の多様化を意味すると同時に言葉では表せない感情を示すことに他ならない。となれば、レゲエやロックやジャズの中にある言葉では示せないものは、まさしく、「音楽」という単語にふさわしいと思われる。
 
 精神科や心理学を扱った小説は、『音楽』が書かれた当時(昭和40年代)には非常に多い。小説が事実を根拠とする情景描写から心理を根拠とする心情描写に移り、と同時に、心象的な味わいから科学的根拠を持ち一般的な解釈を必要とする心理学に流れ出るためには、それら双方の間で文学は揺れ動かなければならなかった、と言える。フロイトやユングを引き合いに出し、これが単なる遊びの血液型占いや狂信的な新興宗教が一般大衆に浸透し、それぞれの分衆がお互いをサブカルチャーとして分け隔てる他意性に至るまでには、なんらかの大衆一致のカリスマ性が必要であった。その真ん中に居た――と私には思われるのだが――三島由紀夫は、自己分析をたくましくし、同時に、みずからの感情的な人生を満足させるべく、彼自身の確固たる分野を建設し、安住する場を求め続けたのであろう。それが彼の「生き方」というものである。
 ただ、『音楽』という作品に関して云えば、かれの芳香性の強いカリスマを感じることはあまり出来ない。精神分析という当時流行していたテーマに沿い、それを婦人雑誌により読者にわかりやすい言葉で示したために、彼自身の排斥的でありつつも親しみを持たれたいという欲望がややもすれば過剰に含まれているような気がする。とある意味では「媚びている」とも云う。
 だが、自決という結果を得るまでには5年ほど間がある当時の彼を考えれば、もうひとつの未来としての円熟した三島由紀夫の姿がこの作品にあるのではないか、と私には思える。

update: 1998/11/10
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