書評日記 第457冊
ねむり姫 澁澤龍彦
河出文庫 ISBNISBN4-309-40534-7

 目次から、ねむり姫、狐媚記、ぼろんじ、夢ちがえ、画美人、きらら姫。
 たとえるならば、石川淳『紫苑物語』、杉浦日向子『百物語』。
 
 普通の疑似古典違うのは、作者・澁澤龍彦がちょくちょく作品に顔を出す点であろうか。そして、読み手に対して「読者」と呼びかけ、作者・澁澤龍彦が作った話であることを強調しつつ、想像の世界において物語を現実化させて夢ごこちにさせることを求めてるような気がする。
 「むかし、むかしのこととて、あったかどうかわからぬけれども――」という一説で始まるのは、大江健三郎の『M/Tの森のフシギの物語』でおばあさんが孫に口伝承をする場面である。あったかどうかわからないけれども、信ずるものは信じ、あったことと口伝えせよ、という命令に聞き手=読み手は忠実になれば、日本のむかし話はグリム童話とは全く違った場所に入ることになる。
 王子さまとお姫さまの変わりは、盗賊や公家や武家の姫であったりするのだが、それぞれがそれぞれの役目をわきまえて極めて象徴的に振る舞うところに、東洋らしさがあるような気がする。
 童話や物語に出てくる登場人物は、作者の意図する象徴に従い、とある意味での運命を背負って演じ、行為し、果てる。つまるところに詰まってしまうのが、童話や物語が持つ元型であり、それを意識して作られ、または、無意識ながらも作者自身が持つ感性の鋭さに導かれ作られたところに、決して無理のない筋書きというものが出来てくる。
 
 とあるところで物語ることを打ち切り、ぴょんと現代思想に乗っかるのが澁澤龍彦の非芸術性であり、これは、太宰治の書く『御伽草子』に似ているのかもしれない。決して芸術にならずとも、作者の意図を明確にして、直接語ってみるところに、作者自身の魅力を垣間見ることができるのである。
 泉鏡花、ラフカディオ・ハーンの怪談と同じく、そのひとの興味あるところに最高の作品が埋まっているという例のような気がする。

update: 1998/11/10
copyleft by marenijr