書評日記 第459冊
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文学なんかこわくない
高橋源一郎
朝日新聞社 ISBNISBN4-02-257298-1
初出は週刊朝日別冊・小説トリッパー95年夏季号から98年春季号まで。
私は非常に個人的に高橋源一郎を信用している。非常に個人的にという言い方をするのは、彼の文学への目が私の文学への目ととても似通っているからである。小説を読むこと、物語を楽しむこと、文章を読むことが、作者との共感を第一に考えるとすれば、高橋源一郎の視点は私にはとても親しみのあるものとして感じ取れるのである。
あいにく、私は競馬も野球も詳しくはなく、富岡多恵子が『優雅な日本野球』を悪評した科白「仲間内でしかウけない」小説の内側部分に踏み込むことはできないのだが、それでも、高橋源一郎が返す科白「そんなに誤読をしなくても」と当惑してみせる愛敬を分かるぐらいには、高橋源一郎は小説に対して真摯でまじめであると思う。
彼の語り言葉は、会話体を真似し口語になり饒舌と冗長さを以って、はるかに口語からずれてしまった文章よりも、ずいぶんと口語体である。あたかも流行を取り入れる最近の小説の流行のように、現代小説を模倣しているようにみえるのだが、実は、かなり独自で、かつ、彼にしか描けない文体を確立している。だが、それは充分に文学史の末端に居る小説家としての義務を守っている。
文学探偵である本小説(?)の主人公(?)タカハシさんは、深く悩む。なにごとにも生真面目に真摯に悩む。投げ出さずに、自分の内側に確保して悩む。ところが、タカハシさんの云う通り、現実社会の高橋さんは、それほど悩んでいないようにみえる。たぶん、事実悩んでいないのだろうと思う。悩み、分析し、真面目に議論し、当惑し、哀れみ、問題視をし、憂うのは、小説の中の作者の傀儡(?)としてのタカハシさんに一切を任せているのである。
高橋源一郎は誰よりも小説を愛している作家だと私は思う。いや、比較ではなくて、彼自身が彼なりの態度で小説を読み、なんらかの感想を持ち、あれこれと考え、どうしてそうなるのかと悩み、どこかの間違いと何かの焦りを敏感に読み取っているのである。
多分、大上段に構え「文学」という学問を守っていかなければならないほど、文学は衰退してはいない。過去にたくさんある山のような古典で文学という学問は充分ではないのか、と私は思う。
だが、人が言葉を使い誰かに何かを伝えようとする限り、また、人が言葉を使って何かを考えようとする限り、現代という同時代性を多く秘めた現代小説は必須のアイテムなのである。
そういう生きていくために大切な携えるもののひとつとして「小説」を捉え「文学」に面しているのが、タカハシさんであり、本小説(?)を書いた高橋源一郎ではないのだろうか。
update: 1998/11/12
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