書評日記 第460冊
ねじ式 つげ義春
小学館文庫 ISBNISBN4-09-192021-7

 つげ義春全集ならば、配置が変わっているのかもしれないが、一応、目次から。
 ねじ式、沼、チーコ、初茸がり、山椒魚、峠の犬、噂の武士、オンドル小屋、ゲンセンカン主人、長八の宿、大場電気鍍金工場所、ヨシボーの犯罪、少年、ある無名作家。
 
 一世風靡をしたのは「ねじ式」と「ゲンセンカン主人」であろう。つげ義春の淡々とした語り口から出てくるのは、低くかすれた御婆の声から紡ぎ出された、乾いた暗黒であろう。物語として扱い、戯れ言として素通りしてしまって良いのかもしれないが、彼の描く絵柄が時に白く乾燥してみえるために、目の前にある砂漠を見続けるような無謀で茫漠な気分に浸ってしまうからではないだろうか。
 と、敢えて言葉をこねくりまわしているのは、芝居や漫画や映画で簡単に表されてしまう(ようにみえる)映像と音の文化とは違った場所にある物書きという限定の中で、読み手の想像力を刺激してみようと、私の得た感情を伝えてみようとする足掻きである。それが、無駄な足掻きであるのか、そもそもが文学という分野が映像が無いためにそれぞれの読み手の想像力に委ねられる読み解きの力を試す場であるのか、私には判断しかねるのだが、すくなくとも今の私がワタクシに対して書いている文章に関しては、読み手に満足のいくようなものを描こうと足掻き、その成果は出ているような気がする。
 
 つげ義春の漫画は生活臭が漂う。ガス焜炉や鍋や便所や道端やふんどしや汚れた洗濯物や煙草の脂や爪の垢などが見えてくる。
 普通の小説や普通の漫画の中では語られないものがふんだんに組み込まれ、とある意味で、普通の小説や普通の漫画が多大に取りこぼしてしまっているもの、逆に云えば、描き切れないために目に止まらないものを、拾い集めている。
 そういう、日常生活の中から得られる地道なものをかき集めても実のところは地道のままではないか、という不安を私はつげ義春の漫画から読み取る。だから、彼の漫画を私はあまり読まない。意識して読まない。そういうことを意識してしまうから読まずにいる。
 
 「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」は、傑作としてあげられるだろうが、私には「つげ義春漫画の傑作」という単語が奇妙に聞こえる。何を描いたとしても、彼の目を脳を手を通った現実は、柘植義春のからだで歪められている。また、普通のひとが見るほどに歪めてしまうものを逆に戻している。
 そういうところに、彼を魅了するものがあるのだと思える。

update: 1998/11/12
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