発情装置(エロスのシナリオ) 上野千鶴子
筑摩書房 ISBNISBN4-480-86311-7
『これは発情装置ではなく、発情装置を語った文章である』というのは、上野千鶴子自身の科白であるけども、『女遊びというタイトルを読んで、それと期待したひとは…』と同じくらいギャグセンスに乏しいような気がするのは私だけだろうか。そうならば、幸いである。
そんな些細なことは社会学者である上野千鶴子には関係ない。社会学と心理学は相反する位置にあるがために相補性を持つ。上から睥睨して各々の関係を切り裂いて分類していけば社会学になり、舌から個人を通して社会を見ていけば無限増殖する心理学に行き着く。だから、どちらがどうという訳ではないのだが、学問として個々の関係を明らかにし、それぞれのカテゴライズを主張し、含有と疎外の集合理論を援用すればするほど、「自己」はますます見えてこなくなってしまうのだが、それも致し方が無いことなのであろう。
これは社会学に対して上野千鶴子に対して批判するのではなくて、そういう中で自己同一性を求めようとする多様性として表される現在の個人の立場を求めることに私が疑問を感じて始めているからである。また、そういう私の外部にある理論を助力に使わなければならないほど私の「ワタクシ」たるものが歳とともに揺らぐものではなくなってきて、同時に、極端とも言える無交友関係から導き出されてきたものは、億劫であり頑固な「ワタクシ」だった、ということなのだ。
そんな私自身の身体が「発情装置」を求めていることを、私自身はよく知っている。ひとつの文学を知るたびに思うのは、なんらかの人生のたのしみ方であり、くだらない現実をおもしろく過ごす方法である。金銭や権力や女を得ることによって得られる感情は決して長続きしないものだ、ということを文学(または漫画)によって染み込まされた私は、そういうものを心の奥底では欲しつつも、決して手を出さない、それがダブルバインドでありつつも、賢い(?)人生を歩むことになることを知っている。
となれば、その方式に従って導き出される現実の私という物体を「私」は、とある幻想を意識しつつ幻想の中に耽溺させることを望んでいる。
と、極端な話、主流があれば、副流があり、それが無限に細分化していき、とある時点で先行きがなくなり絶滅してしまうものと、逓増現象によりフィードバックされる進化論を思い起こせば、目の前にあるジェンダーの問題、フェミニズムの問題、セクシャリティの問題は、自然現象になってしまうのである。
だが、そこにある各要素が人であり、進化の中では微々たるものとして扱われる数年、数十年という単位、世代交代というシャッフルが、個人と集団と文化を形作っていることが、問題視され、それこそが人にとって最大の問題なのである。
とか云いつつ、加藤秀一著『性現象論』、中島梓著『美少年学入門』を買う私は、決して当たらぬ宝くじを妄想しているのか、それとも、必然なる経緯を踏まえているのか。