書評日記 第463冊
岳物語 椎名誠
集英社文庫 ISBNISBN4-08-749490-X

 椎名誠の本はシベリアのトイレのことを書いた話を読んだのが最初であり、最後であった。なぜか私は椎名誠の本を読まない。糸井重里の本も読まない。なぜ、糸井重里という名前が出てくるのかと云えば、私にとって同じくくりであるからだろう。
 活動的で、そこそこインテリっぽいのがウリで、エッセイを書き、大衆に同意を求めぬようでいて実は同化していて、それを自覚しているのか自覚していないのかは兎も角として、孤独であるような雰囲気を醸し出しつつもツるんでいるという事実、が私には気に食わないのである。
 
 と、自己確認しつつ『岳物語』の内容はと云えば、かつて、釣りきち三平は学校に行かなくていいのだろうか、これは教育的な問題として矛盾があるのではないだろうか、という自然に接するという野生味と学校での勉強という社会性とが議論されてしまった頃を、思い出すものであった。椎名誠の息子・岳は勉強はほどほどにしか出来ない。「おちこぼれ」という言葉を使ってはいないが、「おちこぼれ」かもしれない。いや、だったのであろう。だが、好きな釣りを通して、計算をするための算数なり釣りの本を読むために国語なりを自発的に勉強し始める。灰谷健次郎の『兎の目』のようなものである。
 もちろん、あの椎名誠の息子であればこそ、父親である椎名誠が許すからこそ、という印象をぬぐうことはできないのだが、それはそれでいいのかもしれない。なんにせよ、小学生のうちに将来が決定してしまうのは、ピアニストとバレリーナぐらいなものである。
 
 椎名誠の息子・岳の話なのだが――椎名誠は、これを「私小説」と云っているけれども私には「エッセイ」にしかみえない。なぜなら、私小説とはもっと客観的に対する主観的な視点を重視しているものだからだ――、私にとって新しい発見だったのは、椎名誠の日常が非常に忙しいことであった。もちろん、あちこちに旅行し、数々の紀行文ないしはエッセイを書かなければならない仕事(冒険家…ではないのかな?)は知ってはいたのだが、自宅に2週間居るだけでシベリアなりアフリカなりへと飛び回り、その間に原稿書きをして金を稼ぐのは決して楽なことではない、というのが解った。
 当然、好きだからこそやっていける職種(?)には違いないのだが、逆に云えば、好きでなくてはやっていけない職種(?)ということなのだ。
 それを生活費と時間とのトレードであるという資本主義の法則に則って解釈するのも良いのだろうが、限りなく余剰とも思われるTV番組や数々のエッセイの存在を考えれば、ひと一人100年程度は長い歴史のうちでは余波とするにも足りない、ということなのだろう。つくづく、不思議な時代に生きているものだと思う。

update: 1998/01/07
copyleft by marenijr