書評日記 第468冊
幸福号出帆 三島由紀夫
ちくま文庫

 解説・鹿島茂によれば、「幸福号出帆」は「鏡子の家」と同様に物語とはどのように作ればよいのかというお手本的な存在価値がある、そうだ…が、昨今の小説が「小説とはなにか?」的な幼児退行――一面的にはそうだと思う――に陥ってしまった今となっては、「幸福号出帆」の「小説」としての意味は半減しているような気が私にはする。
 とある登場人物、とあるシーン、とある場所を書き連ねた小説はもはや単なる大人の作文でしかなくなって来ている。つまり、文章とは別のものが加わるべきだ…ということになっている、または、それを読者が探そうとする。
 単純な娯楽小説…という言い方が許されるように、ミステリー小説のようにその他の娯楽と代替できる小説――実際のところは、大体なんて出来るわけないのだが――と、小説でしか得ることのできない娯楽ではないものを描いた小説、と二分される。
 ただし、純文学が既に死んでしまったように、もはや小説が小説として追求すべきものは無いような気がする。また、現在の純文学が過去の純文学の模倣に過ぎなく、逆にパロディであること後背にあることを自覚しているように、かつての三島由紀夫以前の純文学のように今日の純文学はそれ自体で独立し得ないものとなっている。
 そんな中で、過去の遺物ないしは遺産を再生産するところに、三島由紀夫の描く「幸福号出帆」や「鏡子の家」があるのだが、はたして、現在のように鴎外の小説は鴎外のままに、芥川の小説は芥川のままにたのしむことを求め始めた場合、三島由紀夫が行った過去の文学遺産の模倣は、模倣に過ぎないのではないか、とも私は思う。
 つまり、古典として銘打たれて未来永劫ともに古典として評価され続ける作品は、再評価を受ける余地がないのである。同時に、過去にあふれんばかりの小説が書かれ、その場所・土地・時代により、日の目を見ることがなく評価されることなく終わってしまった小説や小説家に対して、今は現在という時代性を引きずりつつも多様性を求める末裔としての社会性ゆえに、それぞれを評価し直す(または評価する)余裕・人数を持っている、ということなのである。
 
 「幸福号出帆」は半村良の小説に酷似している。時間的な経緯を考えれば、半村良の小説は「幸福号出帆」に似ているということが正しい。
 だが、執筆時期が前後するという時間軸を取り払ってしまい、数々の古典とちょっと以前の小説と現在の小説とを平たく突き合わせてみることができるのが今の時代性であり、そういう混沌さこそが停滞しつつある文学という分野・求心力であるならば、流行と時代の評価と作品自体の真価を別々に論じてしまうことは無意味なことではないだろうか。

update: 1998/01/19
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