書評日記 第469冊
あたしが海に還るまで 内田春菊
文春文庫 ISBNISBN4-16-726705-5

 「ファザー・ファッカー」もそうなのだが、「あたしが海に―」をフィクションとして読むべきかどうか迷う。このふたつの作品を完全なフィクションと見なしたとき、主人公・静子の行動は感情移入するべきキャラクターであるかどうか、とも考えてみる。「あたしが海に―」で描かれる断片的でしかない主人公・静子の生活は、決して「普通」と呼び習わされる日常生活のものとは違う。とある意味で、現実味のない出来の悪いフィクション
 だが、現実に内田春菊がバンドを組み、漫画家をやっている事実を目の当たりにすると、しかもそれが非常に魅力ある形の彼女の現実を考えると、一人の頭の中で理解できる現実とは随分ちいさなものにすぎないことを知ることが出来る。
 
 というわけで、「わたしたちは繁殖している」を既に読んでいる私は、「あたしが海に―」の中にある数々の科白が「わたしたちは―」にたくさんあったことを思い出す。そして、「わたしたちは―」の中で、そんな科白を吐くひとがいるのだろうか?、という疑惑を含んだ問いが、実に本当のことであったことを思い知らされる。それほど、現実にはさまざまな人が住んでいて、同時に、私の知っている現実とは随分違うのだ、ということを知ることができる。
 それが、一般に云われる「厳しい現実」なのか、それとも、内田春菊が「ファザー・ファッカー」を書くに至ることが出来た強さなのか、槇村さとるが「イマジン・ノート」を書き下ろすことが出来た現実性であるのか、ただ言えるのは、自分ひとりが認識できる現実の狭さとそれを補おうとする想像力が混沌となってしまっていて、なかなか抜け出せるものではないという事、同時に、抜け出すことが出来るという可能性が十分にあるいう事、であろう。

 小説自体に言及するのを避けているのは、あくまでも自伝として捉えられてしまう小説に対して、意見することを控えてしまうからである。この小説に対する言及そのものが、私の読む数々のうちだ春菊の漫画に反映されてしまうと思うと、単純に「あたしが海に―」のみを対象として批判――それが〈批判〉的であれ〈同情〉的であれ、または、〈客観〉的であれ――するのが難しいということなのである。
 もちろん、内田春菊が岸田秀風フロイト心理学を踏まえた上で自己を客観視しているには違いないのだが、精神分析ではない個人個人の治療のための分析心理であるユング心理学を考えあわせれば、彼女の書いた小説が自身を支える砦であり、同時に、社会性を伴っていくための礎、閉鎖社会から脱却するための逆転劇、であることを静観するのが私には精一杯なのである。

update: 1998/01/19
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