書評日記 第470冊
遺伝子の繁殖手段は主に生殖による淘汰が中心であるのだから、男女の性的関係を担うものは、すべて遺伝子を残すために有利な手法を模索しているのである…というのが、利己的遺伝子の動きを人間に当てはめた場合に言える。
で、「浮気人類進化論」では、浮気をすることによって〈きびしい社会〉に存在する「子殺し」を回避している、という進化論の話である。
ローレンツが「攻撃」において書いた『人間社会で頻発する同種の殺し合いは動物社会では存在しない』ということが誤りであっても、私にとってローレンツの真価は地に落ちることはない。そういう願望を持ちたくなる社会性を鑑みては、そこから類推されるローレンツ個人が行動する進化論的な行為を肯定することになる。つまり、善悪も含め自覚無自覚な嘘も含めて、ひとも生物である以上、根本的な原理(遺伝子)からは逃れられない、ということなのである。
多分、「浮気人類―」で竹内久美子が云う「私には世の中にある盗みや嘘などがさして悪いことには思えなく来た」というのと同じものであり、そして、人間社会が子殺しを回避するために取ることの出来た手法こそが「ささやかな悪であった」ということなのであろう。…ここに「強姦」も含めることが出来るのは「モラル・アニマル」が解くところである。
オス社会の中で、弱いオスは子孫を残すために知恵を絞る。それが文系男の口説きであろうと、理系男の堅実さであろうと、同じレベルである。とある意味で乱婚的な人間社会――「不倫」や「未婚の母」や「間男」があることがそれを示している――では、決定的なアルファ・オスを持たない〈いいかげんな社会〉を作っている。
一時期流行った三高という用語、また、三高に反発するメス達、そんな繰り返しの中で、ひとびとは決定的な善悪の観念を持たずに生きている。いや、社会的に視点を固定してしまい、ひとつの軸しか持たない社会になってしまえば、そこは〈きびしい社会〉に豹変してしまい、オス同士の競争は苛烈になり、犯罪はもっと増えることになる。
少なくとも、無秩序な殺し合いは減っているような気がする。それが善い悪い(!)に限らず、多層化した社会の中で、ひとは自分だけの安住の場所、そして、遺伝子(ミームも含む)を求める余裕を持っているような気がする。
さて、遺伝子の話をもっと個人レベルに落としてみるとどうなのだろうか。竹内久美子が「浮気人類―」を書く理由も含め、「利己的遺伝子」が一般に受け入れられた理由(一般的に理解され易いのは何故かという意味で)も理由も含め、「罪悪感に囚われる」とはどういうことなのか。ということを考えたくなる。精神破綻を来たす前に、また、特殊な精神病によって淘汰される又は受け継がれるものとは一体どういう理由があってのことなのだろうか。
むろん、其処には一般に云うところの「意味」はない。だが、確実に現象だけがある理由(因果関係)と個人的な対処方法を見つけ出しておくことが、私自身には必要に思えて仕方が無い。
update: 1998/01/20
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