書評日記 第480冊
夢見る頃を過ぎても
中島梓
ちくま文庫
ISBN4-480-03471-4
「海燕」1994年5月号〜1995年4月号に掲載された文学時評。
第一にこの本で語られる「文学」とは、純文学のことであり、その作家とは文学者ないし文学者予備軍のことであり、そして、文学は学問の範疇として捉えられている。
そもそもが「文学」というものが学問であるのか否か、つまり、国文学のように完全に過去となった作家の過去の作品を学問的な視点で体系化させていくこと、同時に、それらに一定の判断を下していくことと同じ事が、現在進行中の小説たちに可能であるかどうか、は問われていない。リビドーの欲求のままに広げられる小説もあり、自己救済として書かれる小説もあり、学術研究を目的とした実験小説もあるはずなのだが、「表現者」という資本主義経済の法則に則らない言葉と存在を使って、あたかも「表現する」ことが誰もが行うべき行為として扱われているところに混乱がみられるような気がする。
で、それを前提に記しておこうと思う。
1994年の時点で「純文学」は死に瀕していたが、現在、純文学は新しい形態を持って意欲的に活動中である。エンタテイメントを排除したところにある小説をイコール純文学と云う立場から、純文学イコール全く売れない小説というイメージを打開するために、純文学はエンターテイメントを含み、ちょっとばかし格調の高い(?)評論家の目に適うような新しい純文学という分野にスライドした。
『夢見る〜』の最後で中島梓が語るように、彼等現在のエンターテイメント小説家(と云っておく)も過去の小説をたくさん読んだに違いない。今、エンターテイメント小説を書く上で現在の小説を必要とはしないが、過去の小説いわゆるドストエフスキーいわゆるサルトルいわゆる夏目漱石は必要だったのである。そして、今のこれからの小説家もそうに違いない。その中には筒井康隆もあるかもしれないし、大江健三郎もあるかもしれず、村上春樹や村上龍、吉本ばなな、山田詠美が含まれるかもしれない。だが、夏目漱石や三島由紀夫も以前と変わらずに必要であるに違いない。
物語を作ろうとする欲求、心理学的に云えば自分の物語を作ることによって多層社会にある自分の位置を確認することは、食べ物に飢えることとは次元が違う。だが、一冊の本も読まずに文盲であるにも関わらずプーラン・レヴィはインド議員の座を得ることが出来たし、アンデルセン童話を読む前に子供は自分の物語を作る。しかし、そういう根元的な物語を作ろうとする欲求イコール必然性と、ウンベルト・エーコのように非常に自覚的に小説を書こうとする試みを、一緒の「文学」というカテゴリに入れて良いものか、私は迷う。
そして、小説家は小説を作ることと、百姓が米を作ることと、プログラマがプログラムを作ることとは、資本主義経済の中では、食べるための金を得るという第一の目的で同一であるのか、私にはよくわからない。しかし、喰うためになんらかの労働をしなければいけない社会的制約の中からは、少なくとも最低限の自らの欲求(衣食住なりその他の快楽なりも含む)を満たすだけの、暮らしていけるだけの売り買いが可能になるだけの世間との交流は必須になる。それが、イコール、ベストセラーである、とまでは云わないが、本当の意味で「ベスト」になり、作家は一銭の金を貰わなくても満足できるか、といえばそうではないだろうし、実際そうではない。つまり、カフカの小説は、ということが常に疑問視される。
基礎科学的に云えば、基礎とは売れないものであり地道なものである。ならば、純文学とは売れないものであり地道なものであるのかもしれない。そういう意味では売れない作家が売れないことを純文学への理由にしても良い。だが、売れないイコール認められないイコール価値がない、という類推の仕方の誤りは、「文学的な価値」とは何かを考えずに文学的価値を世の中に問うてしまうことである。
もちろん、資産家の道楽息子のように生まれてからずっと余生でない人生を送らなければいけないのであれば、職業としての小説家を文学者も考えなければいけない。これは陶芸家でも同じである。
と、「文学」という分野に限って云えばそういうことになるのだろうが、幸い(?)にして私は理系(実地)の人間であり、文学的論文から遠く離れている。ということで安心しておく。
update: 1999/04/05
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