書評日記 第479冊
放課後
東野圭吾
講談社文庫
ISBN4-06-184251-X
最近、ミステリー小説を読めるようになった。というのは、かつての私には、ミステリー小説の中にある「殺人」に過大な意味を持たせてしまったために、娯楽になり得なかった。また、主に感情移入することを小説の世界に求めていために、感情移入のできない私が為すことのできない挙動に対して、現実と同じように拒否反応を起こしたままであった。今では、多少その束縛から逃れつつある。
森博嗣の知的ミステリーや京極夏彦の怪奇ミステリーのような圧巻する知識の固まりは『放課後』には無い。東野圭吾のほかの作品が同様のものであるか私には分からないが、少なくとも、江戸川乱歩賞受賞作品である『放課後』には無い。ただ、まだしもこの作品の中に人間臭さが漂うのは、殺人事件に動機が含まれていることではないだろうか。『姑獲鳥の夏』や『球形の季節』と違うのは、卑近なと言えるほどの作者の現実がこの作品の中に腰を据えているからだと思う。昭和60年という時期は、まだまだそういう時代だった、ということかもしれない。
ミステリー小説の道具仕立てである登場人物の思考は、道具でしかない。いろいろ準社会批判めいた科白が出てくることもあるが、それが字義通りの意味を持っているとは限らない。むしろ、毎日の新聞やテレビに出てくる事件的な意味合いしか持たないかもしれない。それらを一瞬にして頭の中に駆け巡らせて自分の現実と思うことと比較し吐き捨てることがミステリー小説の読み方なのかもしれない。
解説で黒川博行が語るように、『放課後』の伏線は十分に生かされている。また、登場人物の科白はひとつひとつが十分に吟味されている。だから、一文一文から受け取られる文学的な理解度そのままに読み取って筋を追っていっても破綻を感じることはないものを持っている。かつてのミステリー小説はそういうものが必要だったらしい。今はさほど必要ではなくなっている。
社会批判めいたものを一石投じることによって小説世界は現実世界と交差する。ある意味では俗悪に堕することになり、その時代に縛られた現実的で理解し易い象徴を抱え込んでしまうことになる。だが、とある時期、とある時代に必要なもの、または、その時における作者が必要としているもの、が群発するのは人が同時代性から逃れられないことを意味している。だが、後になってから過去のものとなった事件や流行や考えを振り返ってみると、乾いた解釈と新たな時間が其処に加わって来ることになり、別の意味を小説は持つことになる。
ミステリー小説が娯楽である限り、流行から逃れられず、同時に流行を追うことを厭わない。松本清張が社会派ミステリー小説を多く手掛けたことと同じく、社会派ミステリー小説が当時大きな市場(=読者層=社会的地位層)を得ていたことと同じことが、最近のホラーブームにも言える。そして、小説を書くという生活が、脱サラして独立する、と同じぐらいの決意で済む手軽さになってきているのである。…不況の現在では、脱サラ自体が難しいかもしれないが。
ともかく、深く言及するのも無粋であるし、そういうものをミステリー小説に求める必要はない。3時間ばかりの熱中した時間を得られるに値することが第一条件なのである。
update: 1999/02/28
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