書評日記 第484冊
シーラという子 トリイ・ヘイデン
早川書房 ISBN4-15-207999-1

 端的に言えば障害児学級の教師の手記。「児童虐待」がキーワードになるのだろうが、現実にあったことだからだろうか、本書の中で「児童虐待」の締める部分は後半の一部でしかない。そらドラマチックであろうとなかろうと、『ファザー・ファッカー』のように私には驚愕と冷ややかな心の対処を求めることしか出来ない。
 
 外堀を埋めよう。トリイ・ヘイデンが『シーラという子』を1週間で書き上げたのは驚異である。どれほどの思い入れがあったのか、いや、現実に出会い現実に自分の心を動かして来た経緯を書くことは、それ自体は決して困難なことではないのかもしれない。ふと、感情の起伏がドラマチックな小説よりも少ないのは、まさしく、ドラマチックに進むわけではない現実を示しているのだろう。文体は『ソフィーの世界』に似ている。
 ある種の客観的な目、そして、実体験として経験したこと、これを同時に記録しておくのはなかなか難しい。思わず分析的になってしまう文章とは遠く離れているのはトリイ・ヘイデンが女性だからだろうか。
 『アルジャーノンに花束を』に似ている。
 
 『星の王子様』が登場し「飼い慣らす」という単語が出てくるけれども、これはサン・ディグジュベリの原文ではどう書いてあるのだろうか。『赤毛のアン』に頻発する村岡花子の書く「想像力」と同様な戸惑いを私は覚える。
 
 さて、私にとって「児童虐待」は遠いものか、と考える。少なくとも私の周り(極端に狭いのだが)ではない。だが、松本やよりの書く『女たちのアジア』が私の住む日本とは場所が遠いながらも、日常生活での隠れた搾取が身近にあることを思えば、知らぬ存ぜぬですまされる問題ではなく、さらにその態度こそがそれらの問題を助勢しているのだとすれば、「児童虐待」も関係ないとは言えないのだと思う。
 それは、筒井康隆の云う「ひょっとすれば自分も殺人をやりかねない」危うさを内包したまま日常を過ごす、ということなのである。
 
 ただ、ひとまず私が思うのは、経済や社会の流れが遺伝子学上動かし難いものであり、その渦中にある私自身も虐待される児童もトリイ・ヘイデンも『シラーという子』を読んだ読者も読まない人も毛嫌いする人も感動する人も、生存競争の環に取り込まれているいうことだ。
 そういうグローバルな視点と存在価値と個人的な生き方とは相反するのが当然である場所(社会の流れに乗ることを拒むならば、また、社会の流れに乗ることが出来ないならば)にいて、じゃあどうするのかと考える時、それは一歩一歩という歩みにしか結論付けられない。しかし、それこそが確実なものであるのだから、現状打破とはそういうものなのである。

 シーラは6歳の女の子で知恵遅れではない。遺伝子的な薄弱者でもなく、むしろ、IQは高い。その事実が彼女自身の「救い」なのか、優位に立つものなのか、社会地位的に正統に秀でるべき才能であるのか、と考える。「恵まれた」という言葉さえ思い浮かべてみる。
 つまるところ、生まれた時から不平等である大前提を覆い隠す必要はない。不幸なり幸福なりの尺度は自分の中にある。それで十分なのか?

update: 1999/04/20
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