書評日記 第486冊
退屈な読書 高橋源一郎
朝日新聞社 ISBN4-02-257375-9
「週刊朝日」1996・9・6〜1998・4・24
『いざとなりゃ本ぐらい読むわよ』の次に来る。
でがらし書評日記を止めて、書評日記に一本にしようと思う。
『退屈な読書』を読んで多少元気になった。誕生日が近づくと鬱々とした気分になるのは大学生の頃の習慣で、新年(または年末)が近づくと何かやらなくてはいけない焦燥感に駆られるのと全く同じ。
裁量労働制という枷を自分に当て嵌めてみれば、少しは日常生活にボリュームを持たせることができるのではないかと思ったのだが、なかなかそううまくはいかない。
ただ、ホームページを始めた当初のように、「毎日」という継続性を再び保って行こうかと思う。『カニバ・カーニバル』は胎盤を食べるところで頓挫ぎみになっているし、『独房の蝶』の経済学者の会話から先に進まない。短編を書こうかと思い立ってみるものの、単発的なものを書いたところでどうするものかとも悩んでしまい、途中で投げ出してしまう。
と、そんな中でも本を読んで、生きるための理由やら、死なないための理由やら、仕事で忙しい毎日の言い訳やら、暇な仕事をこなしている幸先の良くない仕事やら、そういうものからうんと離れてみるのも、結局は、先の私にとっていいことかもしれないなぁ、と思い込んでみる。うん。
夕食のパスタを茹でる前にひとつ読んでおこうと思って、一冊読み切った。エッセーはあまり読まないのだけど、島田雅彦の『退廃礼讃』と一緒に買って、やっぱり高橋源一郎の本から読み始めるのは、「気が向く」ということなのだろう。
そう、『退屈な読書』では言い切りの文章が多い。帯に書いてある「過激な読書録」というのはそういう分離に根拠があるのかもしれない。
週刊で連載されたコラムの一気読みは、普通ならば「毎回」という部分に疲れなり飽きなりを感じてしまうものだが、『退屈な読書』は毎回毎回続けて読んでも毛色が違う。山田詠美のエッセーのようでもあり、あちこちに頻発する書名(読書録だから当然!)は膨大でありつつも、一貫性を帯びている。少なくとも、高橋源一郎は自分のコラムを読み返していると思う、ね・・・たぶん。
そういうことからか、自分のための読書録という形で残された(当然、露出狂の部分も含めるわけだが)書評日記に再び戻すことにしよう。後で自分で読み返して、思い出せるようなメモ帳という感じだ。
しかし、高橋源一郎の読書量はすさまじい。脱帽というのは当然だけど、襟を正す気になったのは、この本のおかげ。
update: 1999/04/27
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