書評日記 第492冊
800 川島誠
マガジンハウス

 日曜日に杉並区の清掃工場の隣にある温水プールで泳ぐ。『大市民』とまではいかないが、500メートルを泳げば、十分「運動」と云えると思う。
 
 隣接する図書館に行って『800』を見つける。『800』の感想を見たのは半年前だったか、それ以上だったか。
 
 「児童文学」なのだろうが、あえて「児童」というジャンルに含める必要はない。最近のセックス乱立型の恋愛小説から見れば随分おとなしいストーリーなのだろうが、ある種、微妙に美化された部分を除けば、どんな世代の人が読んでも不思議ではない。
 まあ、「何故にセックスにこだわるのか? それによって解決されるのか?」という疑問を持たないでもないのだが、それは反立するための私のみの理由付けでしかなく、すべての人の人生にエロスが必要であるかどうかは疑問なのである。吉本隆明が「埴谷雄高の小説にエロスがないことが残念である」ということ対してに疑問なぐらいは疑問なのである。

 ふと、運動することが美徳であるような感じがしていた頃を思い出し、また、運動しないことが悪徳であった頃を思い出す。ストーリー云々、ドラマツルギー云々、キャラクター云々、という以前のものとして『800』という小説を捉えることが出来るようになったのは、進歩なのか退化なのか。ただ、少なくとも借りてきてすぐに読み、そして、その日のうちに読み終わった事実は、川島誠の文章力が優れているというよりも、彼が陸上選手であったことと、この小説が陸上選手を中心に描かれていることに、素直な整合性を見出したからだと思う。書きたいものを書く、という唯一ではないにせよ小説を書き上げる原動力のひとつを其処に見たからだと思う。
 ただ、翻ってみれば、自分にそれが欠けていること、同時に、エクリチュールの遊びの中にこそ原動力を見出すこと、に気付き、読むことと書くこととの大きな差を知り、それで良いことに気付く。
 
 実は、二つの場面からスタートする(そして、最後まで一応、二つの場面終わる)小説は、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『ER3』を始め、多少興冷め(というか食傷気味)だったのだが、ほどよく古めに描かれた二人の主人公は、なつかしのSFを読むような気分がして気持ち良かった。

update: 1999/05/17
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